2017年10月29日日曜日

『シルヴィ、から』 54

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十三声) 8

  (承前)

 音楽が鳴り出しても、しばらくは、わたしは中へ入らなかった。ダンスは相手あってのものであるし、ダンスのたびにいちいち相手を求めるあの気苦労に、わたしはもう耐えられなくなっていた。今日は最後まで、まわりに並べられている椅子に座り続けて、友人たちの踊るのを見たり、この合宿中にあったことをいろいろと回想したりして過ごすつもりだった。そうしながら、一方でシルヴィの気持ちを知る方法をさぐり、シルヴィと個人的な一瞬を持てる機会を待つつもりだった。ちょっとでも気を緩めると、そういう考えがすぐに人に知れてしまうように感じられたので、わたしは注意深く心を戒めて、そっと集会室に踏み入った。
 ダンスの輪が音楽とともに廻っていた。入口の近くの椅子に腰を下ろそうとする時、誰かがわたしのほうに歩いてくるのに気づいた。外へ出るのだろうと思って、ダンスの輪のほうにぼんやりと目を開きながら、わたしは足を引いて通路を作った。
しかし、その人はわたしの前で立ち止まると、わたしの腕を突然掴み、引き上げた。
シルヴィではなかった。
あの娘だった。
またしても、彼女だった。
『そうだ、この人がいたんだ』と思った。
彼女は黒い艶やかなドレスを着ていて、肩には銀の紐が掛かっていた。殊のほか、華やいでいた。見違えるようだった。
彼女はなにも言わなかったが、今まで一体なにをしていたのかとなじるようにわたしを睨んで、すぐに踊りの中にわたしを引き込んだ。
その踊りはわたしの知らないものだったので、後ろや前の人たちの足の運びに注意して、せめては人の足を踏まないように、と気をつけた。
時おり、彼女の顔を見ると、目が合うたびに微笑んでくれたので、彼女のなじるようなさっきの眼差しを気にしていたわたしは、次第に楽な気持ちになった。
 なかなか長い踊りだったためか、それが終わると、彼女は「疲れたわ」と言って、椅子に腰を下した。次の踊りはやらないのかと聞くと、ちょっと休みたいという返事だった。
腰かけている彼女を、立ったまま、わたしは見ていた。
見事な装いだった。
奇麗だと言ってやるべきだろうか、と考えたが、数日前、シルヴィにもそう言ったことを思い出した。あの時、シルヴィは本当に美しかった。今でも、もちろん一番美しい、とわたしは思った。
この娘も、今夜はじつに美しい。
美しいというより、着こなしの点で見事だ。
着こなしのこの素晴らしさは、生活に密着した知恵の周到さの美しさのように思われ、そういう現実的な美しさの揺るぎない現われ方が、ともすれば、天上へ逃れて行ってもしまいそうなシルヴィの把握しづらい美しさとはまた異なった、充実した日常生活のものにも似た幸福感を、わたしに与えた。
「きれいだね」という言葉が喉まで出かかっており、その讃辞に嘘はなかったのだが、ふと、これもまた突然に、そのように言うことが、すべて、なにか非常に無駄なことなのだ、という思いが浮かんだ。
わたしは、出かかっていた言葉を呑み込んだ。永遠に呑み込んでしまった。
そうして、ただ黙って彼女の隣りに腰を下した。
一刹那、彼女の首筋に、流れあぐんだ小さな汗の玉が見えたが、その汗の輝きが、わたしの欲情をほのかに燃え立たせた。
その汗を吸いたいと思った。
首筋ばかりでなく、顔の全体にも、殊に、鼻や瞼にも、薄く万遍なく、汗とも油ともつかない膜が伸び輝いていた。胸元には薄く赤みがさし、ドレスの中を満たしているはずの娘の肉体の熱気がそこから洩れ出て、今にもわたしの鼻や口に、そして、胸の内へと達するだろうと思われた。
おそらく、ここに、手を出せば確かに物体として掴むことのできる現実的な幸福があった。ここに娘の体が確かにあり、息づいていて、汗ばんでいる。その汗がわたしの体を誘う。なにひとつ嘘はなく、幻はない。なぜわたしは掴まないのだろうか。
シルヴィ?
シルヴィにまだ未練があるのか?
シルヴィをこそ、このような実体として掴みたいというのか?
いや、そうではない。
少なくとも、それだけではない。
シルヴィとは謎なのだ。肉体としてや、女としてよりも、まず、シルヴィは謎としてある。
わたしはその謎を解かねばならない。それがわたしの為すべきことなのだ。シルヴィとは一体なんなのか。わたしにとって、シルヴィとはなにを意味するのか……
 次の踊りをわたしたちは見送った。踊りの輪が広がったり縮んだりして、音楽とともに廻っていくのを見ながら、「この次は踊るの?」と娘に尋ねた。彼女は首を横に振った。踊らない理由を聞こうと思ったが、面倒に感じられて、止めた。
 その踊りも終わると、彼女のところへ別の娘がひとり来て、わたしを連れていっていいかと聞いた。彼女は快諾した。娘が他に彼女にどう言ったのか、小声だったので全部はわからなかったが、「べつに、そんなに疲れているわけじゃないのよ」と言っていたのは聞こえた。それから、わたしのほうを向いて、「もちろん、あなた次第だけど。…でも、踊ってらっしゃいな」と、三日月のようにきっぱりと口を開いた微笑みを作って、言った。
わたしは踊りの輪に加わった。その晩の最初の踊りをわたしと踊ることだけが、彼女にとっては大切だったのだろうか、とわたしは考えた。
 はじめの踊りと違って、それ以後の踊りは、内まわりの女子の輪と外まわりの男子の輪が、曲の一節ごとに、それぞれ逆方向にまわりながら進行していくものだった。そのため、ひとつの曲の間でも、相手は次々と替わった。
何度目かの曲の時、いつの間に加わったのか、例の娘がわたしのところへ廻ってきたこともあった。もちろん、曲とともに踊りの一節が終わって、次の一節へと時間が移る時には、彼女とわたしの手は離れたのだが、この踊りの輪の中に両者が加わっているかぎりは、やがてまた近いうちに、わたしたちは手をとり合って同じ旋律の中で生きることができるに違いなかった。
一節が終わっては、また次の一節がはじまり、一曲が終わっては次の曲が続いた。踊りの輪のように、すべてが絶えず過ぎ去っては戻ってきた。腕時計の秒針のように、また、長針のように、ふと気づくとさっきの場に戻っているのだった。
だが、短針のように進んでいくものもあるのは確かだった。短針もまた、いずれは同じ場に戻ってくるはずなのだが、その時にはわたしはすでに異なった時間の中に生きていて、今ここにあるものは、なにひとつ、わたしに残されてはいないだろう。踊りはいつか終わる。あと何回か曲が替われば、それで終わりになる。そうしたら、今日という日も完全に終わる。すべてが終わってしまう。
旅行もやがて終わり、秋からは、ふたたび、朝の満員電車や午後の眠たい教室がわたしの日常となるだろう。せっかく脱け出してきた世界へ、わたしはふたたび戻らなければならない。行程が終わるとともに、出発点に戻らなければならない旅。先に行けば行くほど、かつてのしがらみに確実に戻っていく脱出。ふたたび戻らざるを得ない日本の、それもごく個人的な日常が、出発前と全く同じ姿でやがてわたしを包み込むのだと思うと、手相の重要な線の断切点を指摘されたような不快感に眩暈がするようだった。
日常はどこかしら変わってくれている必要があった。変化が日常の側にないのならば、こちらがそれに変化を与え得るものを持って帰らねばならなかった。どのようなものを持って帰ればいいのか。どのようにすればいいのか。
そういうことまでは、非日常の真っ只中にいる現在では、よく考えるわけにはいかなかった。現在のこの情景、この空気のすべてを、まず、強烈なさまのまま吸い尽す必要があるからだ。これらは、いずれ、日常を変えるためのエネルギーとなるだろう。思い出という蓄えは、耐えがたい日常に風穴を開けることができるからこそ、また、その場合にのみ意味があるのだ。
しかし、それでは足りない。それは消極的な自己防衛の手段に過ぎない。風穴ではなく、より大きな穴を開けて向こうへ這い出すためには、もっと強い手がかりが必要だ。その手がかりとは何なのか。どれを手がかりとすればいいか、今考えることはできないとしても、せめて、なにに目星をつけたらいいのか、わかりはしないだろうか。
 もうどれほど踊ったか知れないが、何回目かの曲が終わった時、ちょうどその時にわたしの相手になっていた女の子が、休むために輪から抜けた。ひとりではむろん踊り続けるわけにもいかず、他に適当な人も見つからなかったので、わたしも抜けて、近くの椅子に腰を下した。
椅子は、この集会室の四辺の内壁に沿って並べられていて、ちょうど、踊りの丸い輪を四角く取り囲むようなぐあいになっていたが、ふたたび音楽が鳴り出して輪が動き始めると、今まで見えなかった向かいの椅子の並びが、踊る人たちの動きの間から、ちらちらと見えるようになった。
そうした隙間のひとつにたまたま目を留めた時、わたしはそこにシルヴィの姿を見出した。

 (第二十三声  続く)



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