2017年11月16日木曜日

『せせらぎ』(譚詩1991年作) 7


 (承前)

 自分のこの新しい欲求に少し驚いて、これまであまり描いたことのない風景画の制作過程を漠然と思い描いてみました。どのような風景を選ぶか、どんな色で、筆致で進めていくか、そうするうちに、ふと、出来上がった風景画の上に、亡くなった妻の肖像をコラージュのように描き加えることを思いついたのです。森、山脈、湖、草原、……、それらの上に、風景とは関わりなく浮き上がって描き込まれていくさまざまな妻の肖像画。亡くなった妻のことを描くという、ともすれば暗く、重苦しくもなりがちな行為に、こうしたコラージュの方法を導き入れることで、妻への鎮魂と追憶は、なにか不思議な明るさと軽さを獲得しうるように思われたのでした
 こうして、その日から再び制作が始まりました。仕事が終わると、毎日わたくしは美術科研究室に戻り、すぐに画布の前に立ち、写真を見て参考にするでもなく、雑誌をめくってふさわしい風景を探すでもなく、頭に浮かぶ ーー というより、心の奥にほの見える風景を次々と描き出していきました。これまで経験したことのないような速度で、絵はどんどんと仕上がっていきます。一日の放課後の数時間でほとんどを描いてしまい、翌日に部分的な手直しをするだけということもたびたびでした。
 風景だけはそのように次々と仕上がっていきましたが、その上に妻の肖像を描く段になると、やはり別の、かなりの緊張を伴いました。基本的には、どんな姿をどう描き込んでいっても、それなりの独自の効果が出るものと思ってはいたのですが、実際にパレットに出した絵の具を油で溶いて、筆を、すでに描かれている風景の上に触れる時になると、一度は薄い白い衣を纏わせようと決めていたのが、やはり明るい淡い黄色のローブのほうがいいだろうか、と迷ったりするのです。絵の出来に関わるというより、これは妻のさまざまなイメージに対するわたくしの心の関わり方の問題だったのでしょう。
迷ったあげくに、結局わたくしは、なんらかの色やかたちを選ぶことになるわけでしたが、一度として、失敗はしませんでした。というのも、わたくしがあらかじめ期待したのと違う効果が画布の上に現われる時には、わたくし自身がむしろ、妻の新しいイメージへと開かれていく気持ちを味わうことになったからです。こうした、見込み違いさえもが新しい発見になってしまう制作が、わたくしにとって面白くないはずがなく、風景を対象にするようになって以来、ただでさえ作業が速くなったというのに、絵筆の流れはますます速度を増し、いつの間にか、一年に軽く百を超える制作をするようになっていました。
 このようにして次々と描かれていった作品は、出来上がり次第、友人や知人に無償で分け与えていきましたが、それというのも、わたくしとしては、とにかく、家や美術科研究室などに新しい制作をするためのスペースを保ちたいという事情があったためでした。
 望みもしなかったにもかかわらず、ーーそれどころか一度としてそのようなことが頭に浮かびさえしなかったにもかかわらず、次第にわたくしが画家として認められるようになっていったのも、元はといえば、身近な人たちへの、作品のこうした無償の頒布ということがあったからなのでしょう。自分の思い通りの制作をしながら作品には次々と買い手が付き、さまざまな才能の犇めく現代美術界にあってもかなり思い切った態度で描き続けながら、けっして概念的な難解な創作家にならないでいられたのは、考えてみれば幸せなことでしたが、物事がこのようにうまく運んだことの根本には、大げさに聞こえるかもしれませんが、やはり、夜明けに妻の寝顔を眺めて覚えたあの純粋な愛の感情があるように思えるのです。わたくしが妻への純粋な愛を心に持って描いているからこそ、制作は喜びに満ち、人にも作品が好まれるようになる ーー もちろん、そんなことをわたくしは思ってはおりませんし、自分の持つ愛情についてそうした判断をすることは滑稽とさえ言ってよいことだろうとは思っています。しかし、あの時にひとり心に誓った決意が、今でもわたくしの心の底にあって、それが制作に、目に見えぬある種の力を与えているのは確かであるように思うのです。
 涼しく、涼しく、いつまでもこの女を愛していこう、他の誰かれにもできるようなかたちでではなく、わたくしは、わたくしだけの愛というものを紡ぎ出していこう。わたくしは、わたくしを愛そのものとしていこう …… 結婚してまだ間もない頃の明け方、かたわらに寝ている妻の顔に目を凝らしながら、このようにしみじみ考えたものでしたが、このことを思い出す時、自分の心がまったく変化していないことに、慄くような喜びを感じるのです。
自分の今の絵は、おそらく、あの時の気持ちがそのまま、無理せずにかたちを取って流れ出ているものなのだ …… こんな思いを持つ瞬間です。時間などというものは、もともとありはしなかったと、ふいに強い確信に打たれるのは。
妻は死んでなどおらず、もともとなにも起こってはおらず、おそらく、あの女にわたくしは出会いさえしておらず …… なんとも不思議な瞬間です。奇妙な言い方ながら、わたくしが、わたくしでなどないことをはっきりと感じる瞬間。
そういう時には、逆に、自分の目の前にある制作中の絵が、わたくしが妻とともに生きた時間を持っており、その時間は過ぎ去り、妻は失われ、そして今、わたくしはひとり生き延びて妻の絵を描いているということを、物特有の無時間的な説得力をもって、物語ってくれるのでした。
わたくしは、とりあえず、そういう時には絵が語ってくれることに従うのです。そうして、時間の中へ、わたくしという役の中へ戻るのです。時間という物語の中を果てまで泳ぎ切って、いずれ、すべてから、わたくしというとりあえずの小舟からもすっかり身を引いてしまえるように。
後戻りなどすることなく、これまで起こったかに見えた物事も、二度と繰り返されることのないように ……
(第二章 終わり)

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