2017年11月18日土曜日

『せせらぎ』(譚詩1991年作)  8


  (承前)

     

 妻を失って以来の、四度目の夏が始まりました。
 よく晴れた、蒸し暑い日の午後、わたくしはある高原の小駅に降り立ち、山地のはざまの村へ向かう道をたどっていました。油絵の道具を手に提げ、背には衣類を詰めたバッグやキャンバスなどを背負って、ときどき立ち止まっては水筒の冷水をらっぱ飲みにしながら、三十分ほどの道を歩いていきました。
 「なんせ、へんぴなところでね。でも、一度行ってみれば、きっと気に入ると思うよ。一日中、聞こえるものといえば、鳥の声や小川の流れる音ばかりでね、制作には持ってこいだよ。なにもしないで、ただぼーっとして休んでいるのも悪くないな。毎日毎日、なにもしないでいても、不思議なものでね、なにか心が豊かになって、自然にひとまわりもふたまわりも成長したような気になるんだな。そんなところなんだよ」
 こんなふうに、その村に行くことをわたくしに勧めてくれた友の言葉を思い出しながら、汗を拭き拭き、歩いていったのでした。
 この友はやはり画家でした。ある展覧会でともに賞をもらった時に、授賞式のパーティーで話を交わしたのがきっかけで知りあい、以来、親しくつきあうようになったのです。画家にしておくには惜しいようながっしりした躰つきの大丈夫で、太い筋肉の浮き出た腕や首筋が、静かな雰囲気のきりっとした顔立ちやはっきりした意思をよく表わしている大きな眼と、けっして不調和にならず、こちらに、友として一生つきあい続けたい気持ちを自然に起こさせる男でした。彼の描く絵が、また不思議な絵で、たとえば、近未来の都市の上に、様々な色の混じりあった湖がぽっかり浮いていたり、大きなキャンバス一面に描かれたパソコンのキーボードの表面に、数えれば何万とありそうな多種多様な植物からなる庭園が描き込まれていたりするのです。わたくしの単純な方法による絵に比べて、考えようによっては難解な解釈も受け入れうる余地のある作品ですが、眺めた印象にいつも爽快なものがあるので、新作のたびに、かなりよい評価を得ていました。
 この春のはじめ、ある有名な画廊で彼の新作展が開かれたのですが、そこに出向いた際に、彼の妹さんにお目にかかる機会を得ました。いつもは、彼の故郷でもある山地の村に住んでいて、なかなかこちらに出てくる機会もなく、彼にも会えないというので、新作展の手伝いかたがた、思い切って上京してきたということでした。
 以前、花の絵ばかりを描いていた時期があるからでしょうか、わたくしには癖があって、女性に会うとすぐに、心の中で花に譬えて見ようとしてしまうところがあります。目の前の女性の上に、いくつか花を想像して重ね、その人から出ている雰囲気に合う花を見つけるのですが、この内的な花のイメージこそが、わたくしの、その女性への理解のしかたなのでした。
 彼の妹さんは、彩と書いてあやと読む名でしたが、彩さんに対するわたくしの印象は、花で言えば、ちょうどアヤメのそれでした。むくげの花にも似たところがあって、どちらかに決めようとすれば迷わずにはおれませんでしたが、しばらく三人で、画廊の奥の小さなテーブルに着いて話を交わしているうちに、彼女の持っている涼しげな様には、すうっと、ひとり空間を切るような凛とした心の強さが伴われているのが感じられて、あゝ、これはやっぱりアヤメだな、と思ったのでした。腰のあたりまである髪が、やわらかく画廊のあかりに輝くのを見ながら、わたくしは、この若いアヤメの涼しさに、心のうちを拭われているようでした。
 よかったら、夏に山の村に来ないかという話になり、わたくしが夏の計画を漠然と頭に思い描く間もなく、ほとんど約束させられてしまったかたちになりました。風景を描くのに、想像だけでなく、外に出て実景を描くようにもなっていたので、この誘いは、わたくしにとっては仕事も兼ねたちょうどよい夏の休暇を与えてくれるものでした。夏には彼も帰省するそうですが、仕事のため、帰れるのはお盆過ぎになるということなので、七月の半ばに東京を離れることのできるわたくしは、もし行くとなれば、それまでその田舎の家に、彩さんと耳の不自由なお祖母さんと三人で過すということになるのでした。詳しく聞くことはしませんでしたが、ご両親はふたりとも比較的はやくに亡くなったということで、彼と彩さんのふたりは、ーー いや、もうひとり、やはり四年ほど前に亡くなったというお姉さんを含めた三人は、ずっとお祖母さんに育てられてきたということでした。
 山の村の一家のこうしたひそやかな物語を思ったり、不思議な絵を描く友の心の中にあるに違いない、わたくしの知らぬ森や、小川や、山鳥の声や、家の隅の小暗い壁の塗り土の様などを想像しながら、
 「それでは、せっかくだから、お邪魔させてもらうことにしましょうか。とても静かなところなんですってね?」
 そう言うと、彩さんが、
 「それはもう、なにもないところですが、静かなことだけは確かですわ。近くを小川が流れていますから、特に夜には瀬を流れる水音がしますけれど、大丈夫ですわね? そのくらいでしたら?」
 うなずきながら、耳にはもう、その小川の水音が聞こえるようでした。そうして、ふっと、自分が昔からその場所をよく知っているかのような気持ちになり、なにか心が遠くなりかけましたが、紫色のものが、涼しくわたくしを現実に引き戻しました。
それは、わたくしの心の中に、はやくも花を開きはじめた彩さんの姿でした。

(第三章 終わり)


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