2017年11月2日木曜日

『シルヴィ、から』 58

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十五声) 1

 ……こうして、すべてが始まったのだった。
先行した声よ、わたしとおまえの間には深い隔たりがある。
その終わりにあたっているとはいえ、おまえはひとつの物語の中におり、わたしは永遠にその外にある。
やがてシルヴィに手紙を書いて、彼女がどうしてあのプール脇の小道でわたしに冷たい素振りをしたのか、その理由を訊ねようと決意するまでの間、わたしは、物語から放逐された作中人物さながら、わたしを受け入れてくれる新たな物語を心のうちで求めながら、与えられた時間、与えられた場所の中を彷徨っていたものだった。
帰国して、残り少ない夏休みを家で過ごさねばならなくなってからも、わたしは猶も漂泊を続けていたということができるだろう。家に着いた日の翌日から、ふたたび日常の生活を始めなければならなかったが、高校生であるわたしにとって、その日常とは、まず、とにかく済ましてしまわなければならない夏休みの宿題というかたちで訪れた。積極的に日常に戻るつもりならば、なによりもこの宿題にまず手をつけるべきだっただろう。
だが、わたしはなかなかそれに手をつけなかった。すでに物語は終わってしまっていたにもかかわらず、わたしは日常の中へと拡散していくことを拒んで、失われた物語の内へと、どうにか舞い戻ろうとしていたのだった。戻ることが不可能だとしても、これ以上あの出来事の時点から離れないために、せめて、川の流れの中に立ち留まる杭のように、時の流れに抗して留まっていようと努めた。なにひとつ手につかなくなり、ぼんやりとして時を過ごすことが多くなった。
 八月も終わりに近いある日、わたしはいよいよ翌日から宿題に取り掛かることを決めた。感想文を書くためにある本が必要だったので、午後、家からやや離れた大きな書店へと自転車で向かった。
必要な本を買い終えると、書店でいつもそうするように、並んでいる本をあれこれと見てまわった。
文学書のところへ来た時、わたしはたまたま、何十もの巻より成る世界文学集のうちの一冊、〈名作集〉という巻を手に取った。
〈名作集〉という題から、この本がいくつかの短編や中編によって構成されていることが予想されたが、その頃のいささか自失した状態から脱け出すためには、比較的短い小説をいくつか読んでみることもよいかもしれないと思ったため、手に取ってみたのだった。
目次を開けると、真ん中に『ドリアン・グレイの画像』とあるのが、すぐに目に入った。その他に八つほどの小説が収められているのを漠然と確かめて、わたしは目次を閉じようとした。
が、その時、なにか、頭の奥にまで突き通るような文字を見た、と感じた。
ふたたび目次を開き、その個所を見た。
そこには『シルヴィ』という小説の題名が印刷されていた。
まわりの空気が音もなく一変したかのようだった。それまでわたしを自失させていた霧のような何かの一部が突然晴れ渡って、わたしの外見とわたし自身との間に道が開けたかのようだった。
字に合わせて、わたしは、シ、ル、ヴィ、とゆっくり発音してみた。その刹那には、これが、十数日前までわたしを悩ませ続けた娘の名と同じものかどうか、はっきりとはわからなかった。というのも、それまでの間、わたしは、じつのところ、彼女の名を「シルビー」と発音し続けていて、日本語で表記する場合でも、やはり、「シルビー」以外に書きようがないだろうと漠然と思ってもいたからだった。
だが、わたしは彼女から貰ったサインの綴りを覚えていた。確か、Sylvieと書かれていたはずだった。
わたしは本の中に小説の原題を探った。そして、作品のお終いのところ、
「お気の毒なアドリエンヌ!あの人は聖S……の尼僧院でなくなったのよ……一八三二年頃に」
という、この作中人物のシルヴィの言葉の後に、〈原題 SYLVIE. Souvenirs du Valois〉と書かれているのを見つけた。わたしはこの本を買うことに決めた。

(第二十五声 続く)


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