2017年11月23日木曜日

『魔法使いアヤ』(譚詩2005年作) 1


            私は思った、さようなら、自我、死すべき妹、虚しい像よと…
                         ポール・ヴァレリー『若きパルク』  (平井啓之訳)


 夜明けになって、アヤはいつものように屋根に出た。
 五階建ての細長い館の屋根の上まで、それぞれの階の床をすーっと突き抜けながら、浮かび上がっていった。
 ひんやりとした空気が肌に心地よい。
 東の空が明るみはじめていて、濃淡のある紫の巨大な艦隊のような雲が浮いている。
 四方八方、見わたすかぎりの森で、この世にたったひとりのように感じられる。
 夜と朝のあいだの静かな時間だ。鳥たちが起き出し、元気に飛びまわり始めるまでのこの時間が、アヤは好きだった。夜明けの空のひろがりも素晴らしいが、地上の森の暗い静まりや、少しずつ移りかわっていく大気の様子もすてきだった。
 「たぶん、この時間を毎日ここで過ごすために、私はまだ地上にいる…」
 アヤはふと思ったが、これも無理のない話だったかもしれない。もう三百年以上もここに、このようにして、住み続けてきたのだから。

  地上にいるわずかな本物の魔法使いたちの中では、アヤはおそらく、もっとも幅広い力を持つ有名な魔法使いのひとりだった。
人間の世界ではよく誤解されるのだが、魔法使いというのは、地球の環境をだれよりも愛し、自然の力を、他に害を及ぼさないよう注意しながら最大限に用いて、無理をせず、少しでも長く地上に滞在しようとする人々を言う。彼らは、地球以上に素晴らしい、美しい場所がいくらもあるのを知っているし、行こうと思えばすぐにも行ける力があるのだが、あえて地球に留まって、ここの環境を維持するのに協力しながら、この特異な小さな星を楽しもうとするのだ。
アヤの日常も、ときどき使う魔法を除けば、なんら特別なところのない森林暮らしだった。日の出とともに起き、掃除をしたり洗濯をしたり裁縫をしたりして、昼になれば山菜やきのこを料理して食事をし、午後には森や川や谷や高原に出かけて、食材や薪を集めたりする。夕方には昼と同じようなものを軽く食べ、その後はしばらく、暗くなった森の上を飛んで星月夜を楽しんだりする。そうして、ほどよく疲れて帰ってきたところで眠りに就く。
ふつうの人間たちと大きく違うところがあるとすれば、アヤがなにも生産しないということだっただろう。もちろん、器や道具や必要な簡単な刃物などは、自分で作る場合もあれば、姿を見えなくしてサッと空を飛び、街まで買いに出ることもある。けれども、そうして手に入れるのは、最小限の衣食住に必要な物に限られ、それ以上のものは一切作らないし、買いもしなかった。
人間はよく、生きた証になにかを作るとか、衣食住に必要ないものまで蓄財するとか、自分の存在を認めてもらうためにいろいろなものを拵えるといったことをする。人間というサンゴ虫が作ったそうしたサンゴ礁の堆積を、文化と呼んで、珍重することさえする。アヤの日常には、そうしたことがらが一切なかったので、もしアヤの日常を間近で見守る機会が得られたならば、アヤの生活というのは、ただ生きているだけで、なにもしていないと見えたかもしれない。
けれども、魔法使いたちの生活というのはまさしくこのようなもので、主体はあくまで、地球の自然を体験することのほうにあった。彼らはみな、この小さな星を生きるためにこそ、あえて地球滞在をしているのだ。この星独特のブレンドの空気を吸い、水に触れ、水を飲み、草を噛み、気温の変化をいちいち感じる。そうして、地球からの借り物である肉体が成長し、やがて古びて、また土に返っていくのを経験する。これが彼らの唯一の目的で、これを成就するためには、社会で序列や安逸や富裕さを競うような心は、たんに邪魔なだけなのだった。

 (続く)


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