2017年12月6日水曜日

『リュリュ』(譚詩1994年作)8


    4 失踪

 リュリュは少しずつ、少しずつ、姿を消していった。はじめに足が薄くなっていき、やがて消え、次に腰が、胴が、肩や胸が、…そうしてある日、顔も髪もすべて見えなくなってしまった…
 もちろん、そんなことはなく、むしろ、彼女の消滅はあまりに突然のことだったというべきなのだが、なぜか私には、リュリュがしだいに消えていったような印象が強い。彼女の失踪の時もそうだったし、今もそれはかわらない。
 リュリュが消えたのがはっきりしてきたのは、彼女に連絡をとらず、会いにも行かなかった一週間ほどの期間が過ぎてからである。
その時期、大学は試験期間ではなかったが、私はある演習で面倒なテーマについて発表をする必要から、数週間を落ちつかない気持ちで過ごしていた。図書館へ頻繁に通ってはメモをとり、家ではおそくまで机に向かうという生活だった。
はじめの頃は、いつものように《ブラック・ウィドウ》に通ってリュリュにも会っていたが、ある日、彼女はいらいらしている私に、そんな大学の演習の発表で心を乱しているなんて…と言った。
私はそれに腹を立てたわけではなかったが、リュリュにそれほどはっきりと、自分の落ちつかない様子を見抜かれるのは不快だった。自分の弱さを彼女に見られるのが嫌だったので、それでは、発表が終わるまで明日から会わないことにしようと決めたのだった
 しばらく会わないと決めてみると、この機会に、なにか問題があるたびに人に相談したり話したりする態度も少し変えてみようという気になった。
私はそれほど他人に頼る性質ではなかったし、リュリュにも、それほど自分の問題を持ちかけていたわけではなかったので、この点については、青年らしい克己心から、自分にあるかもしれないと感じる欠点を大げさに拡大して、わざわざ挑んでみるべき試練のようなものに感じられていた。これはもちろん、私がそれほどリュリュという存在に深く寄りかかっていたことの証拠なのだが、当時の私としては、もっと軽く、生活の一習慣に意識的に距離をとってみせる実験として考えようとしていたらしい。
なによりも、リュリュに対して、リュリュと会うことが、じつは私の生活の一習慣に過ぎないのだと見せたかったし、その習慣を取り去っても私はなにも困らないのだということを見せたかった。人間は、自分にとって大切な、この上なく親しいはずの人に対してこそ、無益な、子供じみた、じつに微妙で複雑な心理的な戦いを挑まずにはおれないものである。私のリュリュに対するこの時の気持ちは、一見、私自身が精神的に自立していく過程の一段階の現われに見えながら、実際には、リュリュに対してかなり冷酷な性質のものでもあったといえる。
 彼女はなにも言わなかったが、このことに気づいていないはずはなかった。少なくとも私は、彼女が私の心の奥を見抜いているとは感じていた。しかし同時に、私の心の奥がどうであれ、それによって彼女が影響されることはあるまいとも思っていた。私の意図せぬ冷酷さに傷つくとか、私の態度を悪意として受け取るということは、彼女においてはありえないことだと思えたのだ。
しかし、人間の心というものの性質に対して、諦めや落胆、さらには絶望のようなものを彼女が深めるということはあり得た。いくら絶望を深めても、リュリュの場合、表には出さないのではないかと思われたが、それだけに、未来の、いっそう決定的ななんらかの態度に繋がっていくかもしれないとの危惧を、薄っすらとではあれ、私は心のどこかで抱いていた。私の態度にひそむ微妙な悪意、また、意図せぬ、しかし明らかな冷酷さを、人間の心というものの避けがたい性質として受けとめ、そうしたものからの決定的な逃避を、いつか、決断するに到る… もちろん、そのように考えるのは大げさすぎるだろうし、彼女に対する自分の価値を買いかぶり過ぎていることにもなるのだろうが。
はたして、彼女の心に起こったことについて正しく推論し得ているのかどうか、私には心許ない。年齢を重ねることで、過去の心理的な事柄についてより多様な推論が可能にはなるが、そのどれが真実だったかを判断する最後の正確な基準は、やはり永遠に手には入らないのである。
 演習の発表が終わった日、私は大学からすぐに《ブラック・ウィドウ》に向かった。
 じつを言えば、あと一週間ほどは彼女に連絡をとらずにいて、彼女に対して私が独立していられるのを、いっそうはっきりと見せつけてやろうかと考えていた。そうしなかったのは、とにかくも一週間ほどは彼女なしで過ごせたことで、ちょっとした満足を覚えていたからだろう。その満足があったからこそ、期間の延長を打ち切ることを自分の弱さと見なさないで済んだのだ
《ブラック・ウィドウ》にリュリュの姿はなかった。
私は七時頃まで待ち、店から電話をかけた。呼び出し音が鳴り続けるばかりだった。なにか用事ができて銀行に残っているのか、それとも急に旅行にでも出たか、風邪で寝ているのか、あるいは今、ちょうど病院にでも行っているのか… いろいろなことを考えたが、私はなんの心配もしなかった。実際は私にかなり縛られて日々を送っていたらしいのに、私のことなど、いつも喫茶店で会うだけの友だちにすぎないとリュリュは言っていたし、私としてもそのほうが気楽でよいと思っていたので、このようにリュリュに連絡がつかないという事態が起こっても、心配するというほうには心が動かなかった。そういえば、これまで何度もこんなことは起こってもよかったのに、なぜか一度もなかったと、受話器を置きながら思った。
 とはいえ、日が経つにつれてリュリュの不在は気になり出した。一週間が過ぎても、まだ彼女は現われなかった。もちろん、何週間もふだんの生活を離れねばならないような用事というものは、誰にでも稀にはあり得るはずで、たぶん、そういうなにかが彼女の身に起こったのだろうとは考えた。しかし、心の中では、異変といってよいことが起こったのを、それも、すでに起こってしまったのを感じていた。なんの根拠もないのに、ほとんど、それを確信していた。
死んだのだ、という思いが心の奥にあった。それが言葉のかたちを取りそうになると打ち消し、心というものはいつも物事を大げさにしがちだ、と考える。しかし、しばらくすると、また同じ思いが浮かぶ。それでもなんとか、「死」という言葉に行きつかぬように思いの様々な糸を掻き乱し続けるかぎりは、リュリュはまだ無事なのだ、と感じられた。
なにかの信仰のような、そんな心の動きの渦中に私はすっかり投げ込まれていた。

 (第4章 終わり)



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