2017年12月26日火曜日

ようやく いま 飲み干し終えながら


寺西幹仁さんは
歴史のある詩誌「詩学」の最後の編集長だったが
詩の夢が高くついたか
昼に夜を次いでの激務のさなか
編集室で亡くなっているのが見つかった

中年とはいえ
まだまだ若かったといえるその晩年
何度も
いっしょに飲む機会があったが
ちょっと話が煮詰まると
「詩という字は
「言葉の寺って書くんですよねえ
「言葉の寺なんですよ
などと
よく言っていた

「で
「その寺の西に居たから
「寺西さん…ね
などと
わたしは冗談で応じていたが
詩が言葉の寺と書くということについては
なるほど
とは思うものの
寺の音を借りて作った字であるだけのことで
意味の上では
寺にはあまり関わりがないだろうと思い
じつは
さほど面白くも感じていなかった

けれども
いまになって
詩=言葉の寺
という話を思い出してみると

あゝ、
そうかもね、寺西さん
そうなのかもね

などと
思い直されてくる
思い直さねばならないような
気に
なってくる

寺といえば
ふつうの生活者には
やっぱり
生の終わりに関わる最後の場所
そんな意味合いを
帯びて見えてくるものだし

駆け込み寺
なんていうのもあるから
日常のしがらみや
苦悶から抜け
なんとか
社会の外ででも
生き延びようとする人たちの
最後の頼みの場所でもありうるのだし

古都を訪ねたりする人びとにとっては
わざわざ遠出してまでして
けっこうな料金を払ったりもして
つとめて
心をぼんやりさせ
ぽけーっと
そぞろ歩きしながら
非日常してくる
古雅な
閑雅な
空の場所でもあるのだし

ろくにものも考えないような
わんぱく盛りの子どもたちにとってさえ
道草しながら立ち寄って
堂の下にアリジゴクを探したり
イチョウの実を拾ったり
お墓で肝試ししたり
かくれんぼの鬼になりながら
いつのまにか
違う時代に行ってしまったり
違う心の境位に入ってしまったり
教室でなるのとは違ったふうに
ヘンなふうに
ぼーっとしてしまったりする
平穏ながら
さびしく奇妙な
異界の入口であったりするのだし

こんなふうに
つらつら
つらつら
つらららららと
思い返してみるにつれ

あゝ、
なるほど

言葉の寺とは
言い得て妙

そうかもしれない
詩って
やっぱり
寺かもしれない

まだ続いている
彼との
小さな小さな酒席で
小さな盃を
ーそう、十数年もかけて
ようやく
いま
飲み干し終えながら
どうやら
納得しようとしている
わたし



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