2018年1月16日火曜日

さざなみは大洋のむこうまで


考える
のはよいことであるかのように
思いがち(に誘導されてしまっているの)だが
考える
のは
つねに
思考対象と意識内概念との同一化でしかないので
かならず
非同一性に対する暴力的な排除行為でしかない
もし
非同一性を守ろうとするなら
考える
のを
拒否し停止し阻止し破壊しなければならない

プラトンからヘーゲルへと完成していった弁証法的思考は
アドルノに言わせれば
「否定という思考手段を通じて
「ある肯定が回復されることを意味していた*
ので
彼はこういう「肯定的な本質」から
弁証法を解放する宣言をすることになる

拙速を承知で言ってしまえば
考える
のは
である
多様な差異を同一化する凶暴な
考える
行為は根底から骨抜きにされなければならない
考える
ことにぺったりとくっ付きながら
考える
ことが発現していく瞬間に
考える
ことを溶解させていく闘争が
ひそやかに
隠微に
しかしこの上もなく確実に
なされ続けていかねばならない

なんて
ことはふだんはおおっぴらには記したりしないで
じぶんだけのメモ帳に
ちっちゃい字で
書きつけておくだけ 

空がすてきに青かった部分を
見ちゃったからか
ちっちゃい字の
書きつけを
秘密の書きつけじゃないところに
書く気に
なっちゃったりしたのは

効果(考えることや考えないようにすること
考えの度あいや強度を調節しようとすることの効果)
とはどんなものか
とか

考える
こと
そもそも
考える
ことをつねに裏切り続けるはずなので
わざわざ破壊しようとしなくても
いいんではないか
とか

そんな疑問が
さざなみのように
残る

さざなみは
大洋のむこうまで
届く
のだろうか

届かない
だろうか


*アドルノ『否定弁証法』



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