考える
のはよいことであるかのように
思いがち(に誘導されてしまっているの)だが
考える
のは
つねに
思考対象と意識内概念との同一化でしかないので
かならず
非同一性に対する暴力的な排除行為でしかない
もし
非同一性を守ろうとするなら
考える
のを
拒否し停止し阻止し破壊しなければならない
プラトンからヘーゲルへと完成していった弁証法的思考は
アドルノに言わせれば
「否定という思考手段を通じて
「ある肯定が回復されることを意味していた*
ので
彼はこういう「肯定的な本質」から
弁証法を解放する宣言をすることになる
拙速を承知で言ってしまえば
考える
のは
悪
である
多様な差異を同一化する凶暴な
考える
行為は根底から骨抜きにされなければならない
考える
ことにぺったりとくっ付きながら
考える
ことが発現していく瞬間に
考える
ことを溶解させていく闘争が
ひそやかに
隠微に
しかしこの上もなく確実に
なされ続けていかねばならない
なんて
ことはふだんはおおっぴらには記したりしないで
じぶんだけのメモ帳に
ちっちゃい字で
書きつけておくだけ
空がすてきに青かった部分を
見ちゃったからか
な
ちっちゃい字の
書きつけを
秘密の書きつけじゃないところに
書く気に
なっちゃったりしたのは
効果(考えることや考えないようにすること
考えの度あいや強度を調節しようとすることの効果)
とはどんなものか
とか
考える
こと
が
そもそも
考える
ことをつねに裏切り続けるはずなので
わざわざ破壊しようとしなくても
いいんではないか
とか
そんな疑問が
さざなみのように
残る
さざなみは
大洋のむこうまで
届く
のだろうか
届かない
の
だろうか
*アドルノ『否定弁証法』
0 件のコメント:
コメントを投稿