母方の家は墓石が古いので
新たに名を刻むことができない
石のどの面も
江戸時代の人たちの戒名で埋まっている
名はもっとたくさん刻まれてあるべきだが
大震災の後や空襲の後の
寺の広かった墓地の統合縮小の際
他の墓石は整理されてしまっていて
象徴的な趣でひとつだけが選ばれ
一基だけが今は立っている
老いてきた叔母が
石板で墓誌を立てたいと言い出した
今の墓石では誰が入っているのかわからない
墓参に来た人にわかるように
入っている人の戒名と俗名を記して
墓石の脇に立てておきたいと
今の墓地では隣りの墓との間が狭い
墓誌をなど立てたら窮屈な雰囲気になる
そもそも来る人は限られているのだし
墓参に来るほどの人ならば
誰が入っているかはわかっている
となれば理屈の上では
俗名や戒名を記した墓誌などいらない
遺族に故人の戒名はいらないし
仏様だの菩薩様だの如来様だのなら
墓誌などなくても
すべてお見通しでなくてはいけない
骨壺についても
じぶんの気に入った奇麗なものを
などと言っている
見る人もいないカロートの中で
なおも見栄を張ろうというのか
稀に骨壺が外に出される時のために
おめかししておこうというのか
はゝあ
名を残す
じぶんをどうにかして残す
そんなテーマが
人生の終わりがいよいよ近づいて
浮き上がってきたな
そう見える
この世に残るものは
たんに後の世の誰かが必要とするものばかり
必要とされると言えば見栄えはいいが
要は利用し甲斐のあるものだけが
かろうじてわずかに
道具として重宝され続けるというばかり
故人自身の望んだようには残らず
ずいぶん歪められて
後の世の人に都合のいいかたちで残るばかり
幕末の人間たちを
司馬遼太郎がすっかり捩じ曲げて
自分のでっちあげる活劇に利用したように
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