2018年5月14日月曜日

奇妙な飢餓感や渇きに襲われ出していた…



絶対の不動性すなわち絶対の運動をもつ平面、と呼びうるような同一の固定平面を、相対的な速度をもつ無形の要素が駆けめぐり、それが速さと遅さの度合に応じてなんらかの固体化したアレンジメントに入っていく、そんな世界を思考してみなければならない。名もなき物質で満たされ、触知しえぬ物質の微細なかけらが可変的な連結関係に入っていくような、存立平面。
        ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ
        「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…」 in 『千のプラトー』(1980
 [Gilles Deleuze Felix Guattari : Devenir-intense,devenir-animal,devenir-imperceptible...
 in Mille Plateaux (1980)]




初夏、暮れていく頃の表参道を歩いていて、ふいに激越な至福感に襲われた。すれ違う人たち皆が、自分の愛着あるコレクションを収めたショーケースの中のお気に入りの人形のように見える。誰もが馴染みに思え、細部までよく知っているように感じる。通過していくどの店も、速度を落として通り過ぎていく車も、どれもが今、それらこそが此処にあるべきものに見え、他のものであってはいけないと感じる。その理由も、心の底でよくわかっている気がする。

この至福感は堪えがたいほどになり、どこかのカフェか、まだ夕食には早いものの、レストランにでも飛びこんで、なにか飲むべきではないか、食べるべきではないか、という思いが浮かぶ。至福感を表出するためには、そうでもしないと収まりが着かないように感じられる。

しかし、飲み物や食べ物をいろいろ思い浮かべても、空腹であるわけでもなければ喉が渇いているわけでもないので、どれも飲む気にはならないし、食べる気にもならない。カフェやレストランやファーストフードの店頭のメニューを横目に見ながら歩いていくが、そこに見られるものはなにも欲しくない。

しだいに奇妙な飢餓感や渇きに襲われ出していた。なにも食べたいものや飲みたいものがないのに、それを突破する“飲食”が無性にしたい。胃にはなにも入れたくないし、食道にも喉にもなにも通したくないが、この「入れたくない」や「通したくない」を突き抜けたい。さもなければ、さっきから自分を襲い、全身を浸している至福感にはっきりとしたかたちを与えられない、と感じる。

やがて、至福感は薄れていき、普段の日常の感覚に戻って行った。しかし、目に映るかぎりの食べ物や思いつくかぎりの食べ物はまったく要らないという飢餓感は強いままあり続け、同様に、目に映るかぎりの飲み物、思いつくかぎりの飲み物はまったく要らないという途方もない渇きが、疑いようもない身体的な感覚そのものとしてあり続けている。

時間も進み、もうすっかり夜になったというのに、この飢餓感と渇きが、あいかわらず強いまま、まだ、あり続けている。




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