2018年7月18日水曜日

千二百三十三年の時を隔てて、今さらながらに

    あめつちの遠きはじめよ 世のなかは 常なきものと語り継ぎ…
                                                       大伴家持 万葉集第四一六〇歌

  
最も暑くなるのでは、と危ぶまれた日で
確かに都心はこの夏で最も暑くなり
JRのホームで電車を待つしばらくの時間は汗の玉が肌に浮かんで
なんどもタオルで拭わなければならないほどだった

けれども
用事のあった遠方の駅に降り、さらに
駅前のバス停に並ぼうとして
少し急ぎ加減に足を進めていて気づいたのは
過酷かと予想していた暑さがずいぶん“やわらかい”ということで
そう気づいてみると、暑いというより
暖かいとでも呼びたいような
不快でない暑さに取り巻かれているのだった

同じ日なのに、それも同じ関東なのに
一時間ほど急行に乗って移動した程度で、これほどの差が出るのかと
とりあえずは、小さな僥倖に恵まれたような、
少し得をしたような気持ちになって
猛暑と予報されていた日の正午過ぎの空気の穏やかさを喜んだ

その後も用事が夕方前に終わるまで、その地では
暑いといえば暑いと言わざるを得ないとはいえ
まったく汗をかかずに過ごすことができて、
全国的には熱中症でたくさんの人が搬送されたりしたらしいのに
比較的快適に過ごすことができたのを嬉しく思った

最後の「嬉しく思った」を
私は「嬉しんだ」と書きたい衝動に駆られ
実際、はじめはそう書いてみたのだが
二十一世紀のふつうの文に用いるには、やはり、
あまりに古風と言われようか
「うれしむ」は日本書紀の推古訓には用例があり
さらに同義の「うれしぶ」は万葉集の四一五四番の歌に用例がある
それは大伴家持の長歌で
「八日に、白き大鷹を詠む歌一首 併せて短歌」と詞書きされて、
次のように展開されていく

あしひきの    山坂越えて
行きかはる   年の緒長く
しなざかる    越にし住めば
大君の    敷きます国は
都をも      ここも同じと
心には     思ふものから
語り放け     見放くる人目
乏しみと     思ひし繁し
そこゆゑに    心なぐやと
秋づけば    萩咲にほふ
石瀬野に    馬だき行きて
をちこちに     鳥踏み立て
白塗の       小鈴もゆらに
あはせ遣り    振り放け見つつ
いきどほる    心のうちを
思ひ延べ    嬉しびながら
枕付く       妻屋のうちに
鳥座結ひ    据ゑてぞ我が飼ふ
真白斑の鷹

矢形尾の真白の鷹をやどに据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも

この歌が載せられている万葉集巻十九は
万葉集を壮大に締め括る孤高の編者大伴家持の歌日記から成る
十七から二十の巻のうちの一巻だが
「しなざかる越にし住めば」や「石瀬野」という地名から
富山にあることがわかり
大君のおさめておられる国にかわりはないから、と思おうとするものの
それでも話し相手も詩歌を理解しあえる者もいないのを託ち
萩の花が咲き香る石瀬野(いわせの)に鷹狩に出て
無聊を慰めるさまに
私の心はどこまでも惹かれる
短歌のかたちをいまだに用い続ける日本では大伴家持は
いつまでも同時代人であって無関係の世の人とは我らは思わない
ついこの間の人、とまでは言えないまでも、ちょっと前の人
と感じられてやまないところに日本の詩歌の歴史の不思議さがある

それにしても
しなざかる   越にし住めば
大君の   敷きます国は
都をも     ここも同じと
心には   思ふものから
とは面白い言い方、考え方をするものと私には思え
都から隔たった土地であっても、
ここも同じく、天皇が治める国なのだから、
と考えることで寂しさと無聊を慰めようとする論理の持ち方に
当時の日本の最高の知識人にして詩人であった家持の
世界観の保ち方をしみじみと眺めてみる
天皇とは、そういうものでもあったか、と
現代にあっても日本最高詩人のひとりであり続ける家持の
心の、思念の、マインドのありように
ふたたび、接近し直したくなる

続日本紀によれば家持が持節征東将軍に任ぜられたのは延暦三年
つまり七八四年だが
陸奥に赴いた家持はそのまま多賀城で他界したという説がある
しかし延暦四年に朝廷で奏言を行ったという記事もあり
このあたりは万葉集成立に深く関わる歴史の闇の部分となる

というのは
藤原種継暗殺事件の首謀者としての大伴家持
という姿があるのであり
このあたりについては様々な説があってどれが正しいのか
専門の研究者でない者には簡単には決められないものの
すでに宮廷の官庫に万葉集十五巻まで
実質的には十六巻となっていた)
が収められており
それに合わせるべく編集されていた残りの四巻分は
家持の佐保邸に在ったが
家持が罪人となったために財産とともに没収され
官庫に収められることになったが
家持が赦された後に双方が合体されて陽の目を見ることになったらしい

家持が赦されたといっても
それは死後二十年以上経過した後のことで
それまで彼は埋葬も許されず
官籍からも除外されてしまっている
延暦四年九月二十三日夜の藤原種継暗殺事件の犯人として
大友竹良らが捕縛、
取調べの末に大伴継人、佐伯高成ら十数人が捕縛され
首されていて
家持は
事件より少し前の八月二十八日に死去したため
処刑を免れたものの
生きていれば最も重い刑罰が科せられたに違いない

事件は桓武天皇が大和国に出かけた留守中のことで
この後始まる平安時代は
この権力闘争の血にべったりと塗られながら開幕することになる

いずれにしても
万葉集はこの権力闘争の血塗れの空気の中を
極めて危ういかたちで
かろうじて残ったのであり
これ自体が
奇跡と呼ぶべき類のひとつだったかもしれない

単なる青白き書斎の主でなどなかった
あり得ようもなかった
政治と権力闘争の人、
我らが日本語詩歌の大黒柱、
大伴家持に
千二百三十三年の時を隔てて
今さらながらに
私は衷心から哀悼の意を表したい



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