2019年4月30日火曜日

今夜の文章表現的夢想はこのくらいに


  
雑誌や新聞どころか
読みやすさを旨としているはずのネット上の文章も
たいていは読みづらくて参ってしまう
文章が読めない症候群にでも罹っているのかもしれない……
ひそかに
じぶんでは診断しはじめているが
ほんと
もう
つらくて
つらくて

たとえば
とあるカード会社の会報的な雑誌
バスタブに浸かりながら読んでいて
意味が読み取りづらくて
参った
こんな文章

シアトルの高層ビル群が近くに見える街なかの小さな丘に、ビーコン・フードフォレストと呼ばれるコミユニティ菜園がある。この菜園は、都市部の自然環境に対する啓発活動をするNGOが運営するカリキュラムに参加した人たちによって考案され、生まれた場所である。コンセプトは街のなかに持続可能な「食べ物の森」を造るということ。初めは受講生たちの一つのアイデアに過ぎなかったが、市の公的支援のもと、実際に街のなかに食べ物の森を造り出すことになった。シアトル市では一九七年代よりこのようなコミュニティ菜園を支援しており、ほかのアメリカの都市に比べて自然環境に関する意識が高いという
ビーコン・フードフォレストは、持続可能な自然環境を生み出し、人と自然の両方が永続的に豊かになるというパーマカルチャーの考えがベースにある。菜園の高いところには果樹などを、低いところにはベリーなどの低木を植えるというふうに、一〇〇を超す多種多様な植物が自然環境に近い状態で育てられており、一つの生態系として循環している。

まぁ
文章としてはふつうだが
読みながら
つらい
つらい
カード会社の雑誌の文章というものかくあるべし
というプロトコールに縛られ
今風の雑誌文体というものかくあるべし
と必死に装おうとしていて
しかも
どうせカード会社の雑誌の雑文などマジで読む人はあまりいないし
的な雰囲気もかすかに漂う
いくらかは消化しやすめな書き方で
つらい
つらい
その身振り
読みづらさを
全開させてくれちゃうよねぇ
と思って
バスタブのなか
思わず
お湯
ぴちゃぴちゃ
しちゃった

せめて
このくらいにしといてくれよ
と思いながら
あたまのなかで書き直す

街なかの小さな丘。シアトルの高層ビル群が近くに見える。ビーコン・フードフォレストは、ここにある。コミュニティ菜園だ。
NGOカリキュラムの参加者が作った。都市の自然環境についての啓発活動の成果。
コンセプト?
街のなかに持続可能な「食べ物の森」を造ること。
ベースになっている考え?
持続可能な自然環境を生み出すこと。
人と自然の両方が永続的に豊かになること。
パーマカルチャーの考えかただ。
はじめ、受講生たちのアイデアに過ぎなかったものが、市の公的支援のもと、実際に動き始めた。街のなかに、食べ物の森が造り出された。
菜園の高いところには果樹などを、低いところにはベリーなどの低木を。一〇〇を超す多種多様な植物。一つの生態系として循環するよう、自然環境に近い状態で育てられている。
シアトル市は、一九七年代より、このようなコミュニティ菜園を支援している。アメリカのほかの都市より、自然環境に関する意識は高い。

最低限こうした文体なら
ぼくは読める
読む気になる
読む気になれないものって
読めない
読めないよねぇ
厖大な文章や節や句が電子的に飛び交うようになって
じつは
文体格差というものが大きく現象化してきてない?
文体B層や
文体低レベル層
無数に発生してきていて
それらは
じつは
雑誌や新聞などの既成のメディアのほうにこそ
ごそごそ巣食って
理由もない自足をして
文明の滅亡へと
万人を巻き込んで行こうとしている

さっきの文
さらに
ぼくにとってダイジェスティヴな文体に
ならないかしらん
さっきのコミュニティ菜園についての
あの文
……やってみっかね

シアトルの高層ビル群が近い
街なかの小さな丘のコミュニティ菜園
ビーコン・フードフォレスト

街のなかで
持続可能な「食べ物の森」は造れるか?
持続可能な自然環境は生み出せるか?
人も自然もともに永続的に豊かになっていけるか?
パーマカルチャー……

NGOカリキュラムの参加者が作った。
都市の自然環境についての啓発活動の成果。

NGOカリキュラムの受講生たちのアイデアに
市の公的支援が乗って
実際に動きはじめる
食べ物の森が
街のなかにすがたを現わした
都市の自然環境論
その啓発活動が実を結んだ

菜園の高いところには果樹などを
低いところには低木を
たとえば
ベリーなどを

植物はすでに多種多様
一〇〇を超す
りっぱな生態系として循環させたい
自然環境に近い状態を求めたい

シアトル市
一九七年代よりのコミュニティ菜園支援
アメリカのほかの都市より高い
自然環境に関する意識

行間がもっと空いて
よけい
長くなっちゃったけど
このくらいが
ぼくにとってのダイジェスティヴ

でも
もちっと短くして
それでいて
文章らしくして
みっかね

シアトル。街中に小さな丘があって、コミュニティ菜園がある。高層ビル群も近くて、未来の中の野生みたいだ。ビーコン・フードフォレスト。
街のなかで、持続可能な「食べ物の森」は造れないか? 持続可能な自然環境は生み出せないか? 人も自然もともに永続的に豊かになっていけないか?
そんなパーマカルチャーの考えにもとづいて、都市の自然環境をめぐるNGOの啓発活動カリキュラムから生まれた。
カリキュラムの受講生たちのアイデアに過ぎなかったものが実を結んだのは、シアトル市が一九七年代よりコミュニティ菜園支援を行っていたから。アメリカのほかの都市より自然環境に関する意識が高いことが幸いした。
たとえば、菜園の高いところには果樹などを植え、低いところにはベリーなどの低木を植える。自然環境に近い状態にすべく、行き届いた地味な努力と配慮が続けられるうち、いつしか、一〇〇を超す多種多様な植物が根づき、実を結び続けるようになった。すでに、りっぱな生態系として循環しているのだ。

最後の文には
自律
という語を入れたくもある
「すでに、りっぱな生態系として自律し、循環しているのだ」
「すでに、自律したりっぱな生態系として循環しているのだ」
「すでに、自律した生態系として循環しているのだ」
等などに変えたくもある
でも
「自律」は「自立」と違って
「自律し」
とは使いづらいし
「自律した生態系」
という使い方をするのも
まだ日本語としては熟していない
詩歌では使えるが
文章ではまだ使いづらいだろう

などと
バスタブに浸かって温まるうちに
そろそろ出なきゃ
という時間
ぼくはライターでもないし
文章を頼まれたわけでもなければ
校正や添削を頼まれたわけでもないので
今夜の文章表現的夢想は
このくらいに
しておこう
っと




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