詩とはなにか、
散文とはなにか、
という時
言語学者ピエール・ギローの簡単な説明を
たびたび思い出してきた
散文は「まっすぐに前進していく言葉」*だと
ギローは言うのだ
詩句のほうは
ラテン語vertereに従っていうなら
「韻律のととのった長さを等しくする詩行の、 自分自身に立ち戻ってくる1つの畝溝」**だという
自分自身に立ち戻ってくる1つの畝溝……
このイメージは
これ自体ひとつの詩のようで
ずいぶんな
反芻に耐える
自分自身に立ち戻ってくる……
畝溝……
ずいぶんなことが
ここでは
言われているようではないか
羽村市に残るまいまいず井戸の、あの螺旋形に、
螺旋形をずっと辿って下りて行き、水を汲んで、 また逆方向に上り、
上がってくる、戻ってくる、あの泉との付き合い方に、
二十世紀末の吉増剛造がこだわっていて、それをその頃、 間近で見ていた
ギローを教えてあげたら、ラテン語を経由すれば、
まいまいず井戸そのものが、あまりに、詩のかたちだったのだと、
あっけらかんと、繋がり過ぎてしまったかもしれないが、……
そう思いながら、ギローによる説明の訳は、
もっとどうにか、ならなかったかしら……とも、ちょっと、思う
窪田般彌さんの訳で、まだ若い頃の訳業だからか、
ちょっと、ぎこちないような、……
窪田般彌さん、はじめて会った時、 ショートケーキを出してくれて、
ほら、おあがりよ、と勧めてくれた
日夏耿之介がそうだったという。よく女学生たちを家に読んで、
私設の講義時間に、ケーキをかっておいて、
ほら、おあがりなさい、と出していたのだという
窪田般彌さんは、介護施設に入る時には、
膨大な蔵書をぜんぶ手放して、
まだ本は読むだろうが、もう一切なにも所有せず、身軽に……を、
実践した、と聞く
ギローの
自分自身に立ち戻ってくる1つの畝溝……
とは、ずいぶん違う話に、
逸れてしまったか、
訳者の
窪田般彌さんの、訳語から、訳語の肉声に乗りながら、……
それとも、
立ち戻ってくる、
畝溝、
の、
ひとつ、
か
自分自身に立ち戻ってくる1つの畝溝……
自分自身に……
*『フランス詩法』(ピエール・ギロー著、窪田般彌訳、白水社【 文庫クセジュ】、1971、2001)、p.7
**同上
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