小智を認ることなかれ、須く大愚に至るべし
滴水禅師
きみ、詩人になりたいんだって?
どういうのを書いたらいいのかって?
きみの身のまわりの
あるいはきみの想念のなかの
小さな小さな
ちっぽけきわまる
これ以上ないほどつまらない
どうでもいいことだけを選んで
それだけについて
ひとり芝居をたっぷり盛って
でも
するどく
ピリッと短めにまとめて
喜怒哀楽を適度にふりかけ
書いてみることさ
世の中にはいろいろなことがあるのに
どうしてこんなちっぽけなことを
わざわざ選んで玉を磨くように書くんだろう?
読者にそう不審がらせたら成功
そこにショックが生まれる
詩ってショックだからさ
詩って予想との落差だからさ
意味のない
ちっぽけなことをわざと選んで
長々と書いたり(どうせ最後まで読まれないのを承知の上で…)
あるいは古い詩形を真似ちゃって
小粋な短さでキリッと書いたり
そんなことをわざわざやる精神の異常さに
読者ってショックを受けちゃう
だってさ
うんざりするばかりのルーティーンの現代社会
ショックだけが快感だものね
でも
大ショックはダメなんだよ
小ショックがいい
ほら
映画に行く時って
2時間ほどの区切りのある気晴らしのために行くだろう?
2時間ほど暗い部屋に安全に閉じ込められて
自分自身の人生の監督であることも俳優であることも中断して
決められた時間枠だけのヴァカンスをしに行くわけだろう?
あれとよく似ていて
詩っていうのはせいぜい1分ほどの気晴らしの小部屋なんだ
だれもがどんどん忙しく奴隷化を続けていく世の中では
それ以上は絶対にいけない
できれば5秒以内でサビが味わえるのがいい
10秒や15秒でももう長すぎる
時計の秒針を見ながら10秒を耐えてごらん
けっこう大変なのがすぐにわかる
突然目に入ってきた単語の配列や行の並びに
ふつうの人は10秒もつき合ってはくれない
そりゃあふつうの人はそうだろう、って?
でも詩はふつうじゃない読み巧者向けのものだ、って?
とんでもない!
詩はふつうの人にのみ向けられた娯楽でないと絶対にいけない
おれはシェーンベルクだペンデレツキーだと偉がってはいけない
モーツァルトでロッシーニでシュトラウスでないといけない
なんで詩が読まれなくなるかっていうと
ここのところをあまりにマーケティングしなさ過ぎで
ここのところであまりに営業努力しなさ過ぎだからさ
時代とニーズに合わない商品は見捨てられていく
当たり前すぎることだけどね
消防署がときどきやっている防災訓練の
模擬火災のあの煙もくもくのテントの中みたいなものさ
ぜんぜん視界が利かないで
ちょっとドキドキハラハラしながら
手さぐりで出口まで進んでいくだろう?
味わってもらうのが
あのぐらいの時間のドキドキハラハラなら
まァいいかな
でもあれが詩の限界さ
あれ以上時間を取らせちゃいけない
あれ以上のショックを与えちゃいけない
読み終わったあとの心の揺れが何分も超えちゃったりしたらダメ
思考に飛び火なんかしたらもっとお客さまの時間を奪っちゃう
人間の条件や社会の暗黒面暗鬱面を垣間見せたらアウト
きみの人生にもご大層な思想にも価値観にもだれも関心はない
読み終えたあとの時間を
楽しく陽気におバカになれるような後味でないといけない
「よい一日を!」とか「よい夜を!」なんて感じで
ホテルのドアボーイみたいに心地よく
読者自身の人生に送り出してやれるような読後感でないとね
それに今や
パソコン画面どころか
スマホの小さな画面でぜんぶ済ます時代だ
きみの詩があそこに開かれるとするね
一行で何字ならば崩れずにきれいに画面に入ると思う?
20字や21字程度ならいけそうだよね
でも機種によるし設定にもよる
きみの詩を読むためになんて
人はわざわざ設定を変えてなんかくれない
となると15字ぐらいが最適かな
10字から17字ぐらいなら安全圏なのかな
一行にそれしか文字数を入れられないのか?
なぁんて驚いたり怒ったりしていたらもうアウトだ
そういう時代なんだよ
もっともっとこの度合いは進むんだよ
驚くなかれ、正津勉の詩形の時代来たる、だ!
吉増剛造じゃダメダメなんだよ
アヴァンギャルド振るやつや通人振るやつが
読んだふり
わかったふり
知ったかぶり
するのに超手頃なアイテムになっちゃってて
じつはもう誰も読んじゃいないんだ、あれ
頑張って読んできたなんていう人も
もう中高年になったらつきあっていけなくなるんだ、あれ
だいたい全部読んだなんて偉がる人にしても
評論にもエッセーにも扱えないどうしようもなさがあって
そこが最大の特性だなんて言っているのはまだ青二才で
どこか抜き出して暗唱しようにも
マラルメやパウンドやエリオットも読み切れなかった相手には
なんの効果も生み出せない残念な言語配列
朔太郎なら軽々とだれもが思い出し
だれでも夢見ごこちにさせてしまうというのに
たとえば
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
みたいな詩句があるのに*
吉増剛造不吉 ここには詩句がない!
(cf.「ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ
ここには湖がない」
(吉増剛造『黄金詩編』)**
内容がもう埃くさくなってしまったいわゆる現代詩という古物は
かたちの上でもたいていダメ
でも
まどみちおは行けるね
金子みすゞもある程度行ける
石垣りんにも行けるのがある
案外と八木重吉とか
山村暮鳥とか
島崎藤村とかね
あのあたりはやっぱり現代詩を超えたものを持っている
田中冬二もいいな
じつは銀行員で安田財閥の叔父に養育された冬二は
素朴なほっこり詩の書き手であったようでも
意外に深く鋭い散文を書く人でもあって
人生後半は日本現代詩人会会長で紫綬褒章受勲者
とてもじゃないが馬鹿にしていいような詩人じゃないのに
廃刊になった詩誌「詩学」が特集を組んで詩人たちに文を頼んだ時
頼まれた数人が田中冬二なんて下らなくて
まともに論じる気にもなれないと言っていて
それを聞いてひそかに心のなかで彼らをさびしんだものだったが… …
あの頃かれらはずいぶん詩集を出していたが
今となってはかれらの姿はどこにもなくなってしまっている、 アーメン
そうそう
中年以降まるっきりつまらなくなってしまった谷川俊太郎には
もちろん「鉄腕アトム」の歌などもあるが
一行17字ぐらいに嵌まるのもけっこうあるから
それらなら行けるね
つらつら
ほんのちょっと名を並べてみたけれど
冗談言ってるんじゃないんだよ
ヴィヨンだったら
「おまえさんがた、人間たちよ、冗談ごとじゃあないんだぜ、 こりゃあ」***
っていうかもね
まとめておくよ
一行の文字数はとにかく15字程度
長くて20字
行数は10行ぐらいがいいが
20行ぐらいでもなんとか行けるかな
そうして
5秒以内にサビに突入
終わるまでに
みっつぐらいはサビが欲しいね
スマホ画面上で
行が崩れず
パッと見渡せる
そこがとにかく大事さ
いいかい?
まちがっても
今きみが読んでいるような
こんな長ったらしい
だらだらの文字配列みたいなのは
書くんじゃないよ
こういうのは
読まれたくないのをわざわざ書いちゃおうという時の
カモフラージュの形式だからね
さあ行け!
世界中の端末に待たれている
来たるべき
21世紀の詩人よ!
*萩原朔太郎「旅上」
**cf.駿河昌樹「下北沢、池の上、エレーヌ、… はじまりまで」
***フランソワ・ヴィヨン『ヴィヨンの墓碑銘( 首つりのバラード)』
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