2019年9月10日火曜日

メールの効用


ガンが見つかって
手術を済ましてきた知りあいのメールに
返信をする

それまでぶつかることの多かった夫が
入院中は甲斐甲斐しく世話してくれたというが
帰宅してみると
夫がテレビの音量を大きくしてうるさいことや
洗濯物を出しっぱなしにしていたりで
やはり
はげしいストレス

こういうのは
聞いてあげておけばいいので
まじめに助言をすると
かえって
めんどうを引き起こす

あれこれ
あたりさわりなく書き送りながら
そういえば
ぼくはまわりのゴタゴタが
あまり気にならないな
と思いなおす

こんなふうに書き送る

ぼくは、自分自身こそがいちばんどうしようもない奴だと知っているので、たいていのゴタゴタは気になりません。
テレビの音量より自分のなかのムダな思いの音量のほうがいつもうるさいし、心のなかの洗濯物の出しっぱなしのほうがひどい。
それと比べると、まわりのことは、いつも、なぜかそのように存在している、その時だけの舞台背景のように見えます。
いま見え聞こえているこの光景、風景、この見えかた、これが現実というものなんだ、といつも驚いてしまうのです。
死ぬ時は、これらも懐かしく思い出されるんだろうなあ、と見えます。
そう思って見ると、まわりのものって不思議です。
このタオルも、あの食器も、なんでもないもののようでも、本当に細いギリギリの縁の糸で繋がって、自分のところに来たんだなあ、とよく思います。
そういう「縁」が、もののかたちを取って、そこにある。「縁」がいまの自分を作ってきたのだし、「縁」はたぶん自分そのものです。
そんなふうに考えると、いまのまわりのものの状態が、いまだけの自分そのものに見えてくる。
なんだか、これだけで、十分満ち足りてしまう感じなのです。

けっこう
ほんとのこと
書いちゃったなぁ
メールの効用に
ちょっと
驚く

じぶん自身に対する
効用に




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