2019年12月22日日曜日

ほんとにごくわずかなことばの束だけが



神は御心に留められた
人間は肉にすぎず
過ぎて再び帰らない風であることを
詩編7839



詩のようなかたちのものを
もう
数万編は書いてきたと思います

詩集を出せ
よく言われます

出したい人は
出したらいいと思います
略歴に
むごたらしく
みにくく
出した詩集を並べたりしない
業績などと呼んだりしない
詩人会などに加わったりしない
中年会や老人会にいつのまにかなっていく
詩人たちの飲み会に集ったりしない
そんな節度を
死ぬまで保てるならば

詩人の
というより
みんな
ほかの才能がないものだから
詩人としか呼びようのない
知りあいは
ほんとに
いっぱいいました
かれらは
けっこう詩集を出していました
でも
30年以上経ってみると
だれの詩集も
本屋さんには残っていません
古本屋でもまず目にはしません
出版されたときは
仲間が集まってパーティーをしたり
ちっぽけな書評がいくつか出たり
ちょっとの賑わいが
さざなみ立ったりしましたが
なぁんにも
残っていない
とくに1990年代に入ったら
ダメ
80年代までのやり方で
なんとかじぶんの自我を世間化しようとしても
もう
オールドファッションド
そうして
世間は
80年代までのオールドファッションドに
徹底的に
きびしく
つめたく
なってしまったのです

出した本を
ちゃんと送ってあれば
国会図書館にはきっと残っているでしょう
でも
わざわざあそこに読みに行く人が
どれくらいいるでしょう
100年や300年や
そのくらい経ったら
再発見されて
ロートレアモンみたいに
世界の文学シーンを
ふかく変えたりするのでしょうか

無数に無限にしょうこりもなく
屋上屋を架さんと
大量生産され続けている
ことばの表現の
大海
乱流
泥濘
汚濁
のなかで
って
至上のもの
であるべきだとは思うのです
珠玉
至宝

そういう質に至っていないものを
とみずから呼んで
憚らない人を
わたしは詩人とは認めません
恥を知れ!
と思うのです
仲間うちで褒めあって老いていく人たちも
たゞ
たゞ
さびしいのです

でも
その人にも
その人たちにも
言いません
言っても通じないでしょう
だれも見たくもないその人の自我を
平気で露呈して
だなんて
呼べる人たちには

それでも
はあるべきです

では
どうしたら
はありうるのでしょう
どうしたら
は印刷されたり
本になったり
し得るのでしょう

けっきょく
のちの時代の他人たちに
判断を
ぜんぶ任せるしかないのです
至上のもの
珠玉
至宝
それを決めるのは後世です
いまの仲間うちで良く思われたって
仲間の外で
仲間たちがみんな死に絶えたあとで
至上のもの
珠玉
至宝
と思われなければ
なんにもなりません
完全な受け身
完全な孤絶
されるがまま
誤解されるがまま
忘れ去られるがまま
そんな扱いを受けながら
それでも
至上のもの
珠玉
至宝
としてメモされたり
わざわざ本に編まれたり
すてきな装幀まで施したくなっちゃったり
そうされる
ほんとにごくわずかなことばの束だけが
文字のならびだけが

だから
書くだけ書いたらいいのです
粗末な印刷をしてみるくらいのことは
許されるでしょう
でも
やっていいのは
そこまで

あとは
されるがまま
誤解されるがまま
忘れ去られるがまま

完全な受け身
完全な孤絶

書いた人の人生のあれこれも
こまかな喜怒哀楽も
夢も
悔恨も
希望も
愛も
愛の不毛も
すべて
いったんは忘れられ尽くしてしまうまで




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