2020年3月6日金曜日

ユキヤナギの風景

 

数えきれないほどの桜並木に両岸を飾られた隅田川ぞいの
数年前までのあの王子神谷の住まいは
ヴェランダの前に人造ながらも草はらがひろがって
むこうにある舗道ちかくには
大小のソメイヨシノが七本ほど並んでいた
種類のちがう赤みの強い桜もあって
ソメイヨシノよりも先に咲き出た

桜の頃には居間からそれらが見わたせて
青年期より計画のまったく立たない人生の乱流に翻弄されるばかりとなった
こころの落ち着くことの絶えてなかったわたしの人生で
ついに休息の時と場が与えられたかのようだった
五歳から九歳頃に住んだ住まいとよく似た1階住まいで
幼少期のしあわせな時代がいくらか戻ってきたかのようだった
こころの故郷への帰還そのもののようでもあった
王子神谷のこの慎ましい草はらの住まいを
わたしは誰にも言うことなく心ひそかにどれほど愛したことか!
この愛着の深みはいっしょにいる妻にもついに理解されることはな
かつての幼少期の住まいをいっしょに過ごしたのに
たまにやってくる親たちにもまったく理解はされなかった

外に目をやれば見はらせる草はらでは
春先には桜より先にたわわにユキヤナギの花が咲き揺れ
これは手を伸ばせば届きそうなほど近くに何株も大きく広がってい
わたしたちだけのために植えられた特別なもののようだった
このユキヤナギの花穂に真白くいっぱいに小さな花つぶが咲くと
いよいよ一年もほんとうの盛りに入っていこうとするのだと思わさ
なによりこの花のための特権的な席が妻とわたしだけに与えられていて
ユキヤナギの揺れる白の風景はわたしたちの結びつきの象徴と思え
すでに長くなった地球滞在において
ほかのどこでも経験したことのないユキヤナギの日々は
妻とわたしの生活のひときわ印象ぶかいページとして時空に刻まれ
わたしの逝く時にはこの花の白いたわわな揺らめきが意識を領するだろう
たくさんの人とのまじわりのあったわたしの生の航海にあって
こればかりは他のだれひとりとも共有したことのない風景で
わたしはこの風景とともにあった七年間ほどの幸福を
全宇宙のなににもまして貴重なものとして携えて逝くにちがいない




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