2020年5月31日日曜日

語弾

 

なにかを書こうとしても
どうしても
私という銃口から語弾を発射するということになってしまう
この銃口から放たれた語弾だという痕を残してしまう

それが厭だった

誰から発せられたのでもない
どの銃口から発射されたのでもない語弾だけで
言語配列は構成したい
そうでなければ醜くて耐えられない

個性を出す
とか
人となりがよくあらわれた
とか
そういう文や詩歌がほんとうに気持ちが悪い

どうしたらいいのだろう?

ラディゲが『ドルジェル伯の舞踏会』で近づこうとしたが
フランシス・ポンジュが『石鹸』で実現しようとしたが
谷川俊太郎が『定義』で試みようとしたが
……成功したのだろうか、彼らは?

ページ数の少ない科学論文や
数学論文をたまに見ると
理解はできないのにそこに理想に近い姿が実現されている
感知されることがある

何語であれ言語による説明が極少であり
ほとんど数式しかないのであれば!

音符もまた理想にずいぶん接近している

音符のよく読めた文芸批評家ロラン・バルトは
シューマンの楽譜を読むのを好んだが
パリの街角の歩道に立っていた彼に自動車が飛び込んで来た時
彼の意識にはまだ言葉のほうが多かったか
それとも音符のほうがわずかながらも多かったか




0 件のコメント:

コメントを投稿