なにかを書こうとしても
どうしても
私という銃口から語弾を発射するということになってしまう
この銃口から放たれた語弾だという痕を残してしまう
それが厭だった
誰から発せられたのでもない
どの銃口から発射されたのでもない語弾だけで
言語配列は構成したい
そうでなければ醜くて耐えられない
個性を出す
とか
人となりがよくあらわれた
とか
そういう文や詩歌がほんとうに気持ちが悪い
どうしたらいいのだろう?
ラディゲが『ドルジェル伯の舞踏会』で近づこうとしたが
フランシス・ポンジュが『石鹸』で実現しようとしたが
谷川俊太郎が『定義』で試みようとしたが
……成功したのだろうか、彼らは?
ページ数の少ない科学論文や
数学論文をたまに見ると
理解はできないのにそこに理想に近い姿が実現されている
と
感知されることがある
何語であれ言語による説明が極少であり
ほとんど数式しかないのであれば!
音符もまた理想にずいぶん接近している
音符のよく読めた文芸批評家ロラン・バルトは
シューマンの楽譜を読むのを好んだが
パリの街角の歩道に立っていた彼に自動車が飛び込んで来た時
彼の意識にはまだ言葉のほうが多かったか
それとも音符のほうがわずかながらも多かったか
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