2020年9月7日月曜日

本当に有り難がる人間に数枚の千円札が渡るのは

 


天使はなぜ、苦境に陥った人間の姿をして現われるのだろう。

J.W.アンダースン『天使の奇跡』

 


 

毎日のように100冊から200冊ほどを

時間をなんとか捻出しながら

となり街に借りたトランクルームへ運んでみているが

せっかく運んだ本を

棚に重ねながらめくったりするうち

やはり手元に置いておくべきと思って

また持ち帰って来ることも

たびたび

 

家から5分ほどのところだから

そんなこともたいして苦にはならないのだが

二十三歳の頃は違った

酔った酒乱の父と包丁を切りつけあっての大喧嘩になり

警察官も数人介入してのけっこうな事件となった後

決定的に親の家を出たが

その後に父の不在時を狙いながら書籍を運び出した際には

片道1時間半もかかる距離を

30回以上往復して

本を詰めたデパートの厚手の紙バッグを両手にひとつずつ持っての

気の遠くなるような運搬の行だった

京浜東北線に乗り

赤羽線に乗り

山手線に乗り

京王井の頭線に乗って

黙々と運んでいく

わたしの人生はそれ以後さまざまな無意味な労働の連続だったが

この時の30回以上の往復は

その後の無意味きわまりない多量の往復の序章だった

 

爾後二度と実家に戻ることはなかったが

父とは20年後あたりからふつうに再交流するようになった

しかし自らの酒乱癖で親子関係を破壊してしまった悔いからだろう

父はわたしになにかを頼むことも強く言うこともできなくなり

こうして構築された逆権力構造をわたしは利用し続けている

どんな場合でも「おまえの酒乱ですべては壊れたんだろうが!」と言えば

父は萎縮し黙りわたしに顔向けできなくなる

何度かこれを行ってわたしは父を徹底的にいたぶる快楽を味わった

彼が老境に入ってからは人道的配慮“から行わなくなった

許さないも許すももうどうでもいいと思っていて

心に引っかかっていることはなにもないが

本来は家族的な心性の素朴なひとりの男が息子の信頼を失ったさま

もちろん哀れとは思っている

哀れとは思っているがいたぶり尽くしたい気持ちもあり続ける

酒乱の親を見捨て尽くすネグレクトの快楽もあるのである

心とは恐ろしいもので事件とは恐ろしいもので

やられたことはけっして忘れることはない

そして報復はいつか決定的にやってやるとの思いも消えない

しかし相手もじぶんも老いていく

老いていくが事件で受けた傷は癒えることはない

ちょっとした家族内の不和でさえこうなのだから

世界史上の虐殺事件や戦乱時の被害などが消えるわけがないだろう

わたしはわたしの心を以て推測することができる

 

トランクルームに行く途中に川があり

橋の上の端っこにはこの頃ホームレスの初老の男が寝ている

薄い布だか段ボールだかを下に敷いて毛布もかけずに寝ているのだ

これから秋も深まっていったら寒くなる夜も訪れてくるだろう

家出した後でわたしもわずかだがホームレスをしていたことがある

地べたから見る歩行者の足というものは独特の風景で

それはホームレスをしてみたものでなければわからない

台風が東京に来ることもまだまだあるだろうし

風雨の強まった時などこのホームレスはどこに雨風を避けるのだろ

本で膨らんだトランクを引っぱりながら

または空っぽになったトランクを引きながらの帰りに

このホームレスに幾らか金を手渡してやりたいようにも思う

困っている時にふいに握らされる数百円や千円というのは貴重だ

金も持たずに放浪していて飲み屋街をうろついていたら酒場の前で

気前のよい酔客から金を恵んでもらったことがわたしにはある

ただの千円数枚だったがそれは神の助けそのもののようで有り難かった

商売女を両脇に抱えた酔客は気前のよいところを見せたかったのだろうが

そんな彼の下心も格好づけもわたしには天使からの心づくしだった

 

あの時に握らせてくれた千円数枚がわたしのなにかを救ったのか

世界や人間や社会というものへの信頼をわずかに繋いでくれたのか

あの時の千円数枚程度のお返しは

世界や人間や社会に対してしたいような気もするし

するべきような気もするが

同時に甘やかさないほうがいいとも思う

世界や人間や社会は

 

しかし

世界や人間や社会には実体はなくて

実体があるのはいつも困窮した生身のひとりの人間だ

数枚の千円札を本当に有り難がるようなひとりの人間だ

本当に有り難がる人間に数枚の千円札が渡るのは

めったに起こることのない奇跡のようで

素晴らしく

輝かしく

美しい

それをわたしは経験したことがある

しかるべき時には他人に経験させたいとも思う





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