2020年11月2日月曜日

若者たちに以前から見せてみたかった太平洋戦争を扱った短歌

 

近現代短歌へと

あまり面倒くさい雰囲気になり過ぎないように

若者たちを導いてみている

 

一瞬の人気を取ったりするには

俵万智や穗村弘や加藤治郎がいたりする

1980年代に風靡したあのライトヴァース系や

もっと近いところの

東直子などを見せておけばいいし

そんなことは

すでに

さんざんやってみた

 

おもしろいのは

意外と

若者たちがライトヴァース系に反応しないことだ

俵万智は教科書に出ているので

それには反応する

しかし

穗村弘には定番のいくつかにしか反応しないし

加藤治郎には無反応

岡井隆に全く無反応なのと

ちょっと似ている

東直子にも

詩歌に興味の強い人以外はほぼ無反応で

いまの若者たちの感性が

かなり古典的なほうへと向いているのを感じさせられる

いいとか悪いとかではなく

ふだん読み慣れない短歌を読む際に

くだけたものやふざけたようなものを見せられたくない

そんな雰囲気が感じられさえする

斉藤茂吉にかなり反応したり

万葉集や古今集や新古今集に反応したりする者が多いのは

日本の今後の詩歌受容が

大きな曲がり角に来ている兆しなのかとも思う

 

そんな若者たちに

以前から見せてみたかったのは

太平洋戦争を扱った短歌だったが

時間の関係でなかなか紹介できないのが残念だった

今年はうまい具合に調整がつき

有名無名の歌人たちの歌を並べてみることができた

たとえば宮柊二

たとえば香川進

たとえば渡辺直己

そのほか

めったに短歌選集にも載らない

無名の歌びとたちの歌のあれこれを

 

それらを噛み砕いて

眠る時間を削り

ながながとやさしく説明しながら

たとえば

こんなふうに

 

 

 

《(…)ここからは、殺し、殺される場所である戦場のリアルさを扱った短歌を、もっと見ていくことにします。

 

斉藤茂吉よりも後の世代で、実際に兵士として戦場に行ったという歌人は、非常に貴重な短歌を作っています。戦争体験の短歌を収録した第二歌集『山西省』の有名な一首を見てください。 

 

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

 

 戦場の最前線です。敵の中国兵にそっと近づいて、引き寄せ、寄り添うようにして刀で刺し殺した時のことを歌っています。おそらく、心臓を刺し抜いたのでしょう。映画のように叫んだりせずに、声も立てずに崩れ落ちて倒れた、というのです。

 衝撃的な場面ですし、なによりも衝撃的な告白であり、短歌です。

しかし、ごく普通の兵隊として戦場に行かされた日本人の、戦場での日常はこのようなものでした。敵に出会えば、とにかく殺さなければならない。そうしないと、こちらが殺されます。そればかりか、敵を殺さないなどと言ったら、その場で反逆行為として処刑されることもあります。一兵卒には、敵を殺さないようにする、などという選択の余地はありません。宮柊二は、自分自身のようなただの一兵卒というものが、どのような経験をさせられたのかを、戦後に、あえて正直に短歌にすることで残そうとしました。

宮柊二は、ロマン主義の代表的な大歌人である北原白秋の弟子です。そういう人が5,6年ほどの兵隊生活を余儀なくされ、最も過酷だった戦場経験をしながら、どんな光景を見続けてきたかを短歌にしたところに、運命の皮肉というものがあります。

彼は、戦後も現代短歌の重要な担い手であり続け、高度成長期の日本社会の矛盾や、その中で生きる個人にしわ寄せされていく問題を歌い続けました。

 

 三菱商事の社員として中国大陸にいた歌人、香川進は、昭和13年に、朝鮮、満州、ソ連の国境で日本軍とソ連軍が衝突した際に現地で召集され、兵士にさせられます。

寒い北の地域での戦闘を経験した彼には、このような歌があります。

 

氷の上はずみをもちて(ころ)げくる弾丸(たま)の一つがわれを殺さむ

 

 寒さで地表が凍っているので、敵が撃ってくる弾が、氷の上に落ちても、角度を変えて跳ね返って飛んできたりします。それに当たったら、自分は死んでしまうだろう、というのです。

 

銃剣をひきぬきしかば胃袋よりふきいづる黄いろき粟粒みたり

 

 敵兵の腹部を銃剣で刺したら、ちょうど胃袋が裂けて、中に溜まっていた黄色い粟粒が吹き出てきた、という歌です。敵兵は、少し前に粟粒を食べてから戦闘に入ったのでしょう。香川進は、自分が行った殺傷を、冷静に、冷酷に、カメラで正確に写すように描写しています。

 戦争反対だとか、殺人はいけないとか、こんなことはしたくないといった発言も発想も、なんの意味もなくなってしまう状況を強いられた歌人は、言葉を使って、起こったことや見えたことを冷徹に書いていく他ない、と選択したのでしょう。

 

夕まぐれわれは水飲みにくだりゆき死にゆく兵は死ぬに任しぬ

 

 戦闘の終わった夕方のようです。川へと下りていって、水を飲もうとするのでしょう。戦闘の後では、すでに死んだ兵士や、傷を負って倒れている兵士などがあたりにたくさん見えます。作者は、重傷を負って死んでいく他ない状態の兵士を助けようともしません。助ける手段もなく、薬もなく、どうしようもないのです。頑張れなどと励まそうにも、傷ついた兵の人数が多すぎます。何人かに水を飲ませたり、多少の手当をしようとしたりしても、これからやってくる夜の寒さは氷点下になりますから、重傷兵はみな凍死してしまいます。

こういう状況なので、死んでいくであろうそうした兵士たちをもう助けようとはせず、放っておいて死んでいくに任せ、生きている兵士である自分は、いま、とりあえず川の水を飲んで命を繋ぎ、残っている力を浪費しないようにして、明日の戦闘のための休息を少しでも取ろうとするわけです。

自分がまだ生きているということは、まだ戦闘機械として動かなければならないということです。ただそれだけのことで、とにかくも死ぬまでは、兵士として動き続けようとしなければなりません。

 ここでも香川進は、冷徹なカメラのように、ただの戦闘人間であることしか許されなくなっている自分の心理や、現場の状況を写しとっています。

 

 中国軍の攻撃から南満州鉄道を守る鉄道守備隊兵士だった今村憲には、こんな歌があります。

 

撃ち撃ちて赤く焼けたる銃身に雪をかけつつなほし撃ちつぐ

 

 機関銃を撃ち続けていると、銃身が熱を帯びすぎて、鉄が赤く焼けてくるというのです。それを冷やすために雪をかけて冷やし、そうして撃ち続けるという、実戦の経験者でないとわからないようなリアルな経験を歌にしています。

 「なほし」の「なほ」は「猶」で、古語では「いっそう」、「ますます」といった意味。「し」は強めの副助詞です。

 

 有名な戦争歌人で、やはり兵士として、宮柊二と同じ山西省での激戦を経験した渡辺直己(31歳で戦死)は、こんな歌を作っています。

 

頑強なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ

 

 なかなか負けずに抵抗し続けていた敵陣を陥落させて、乗り込んだ時の光景です。泥にまみれて、英語の教科書のリーダーが落ちていたというのです。敵の中国兵の中に学生がいて、戦場へも英語のリーダーを持ってきて、戦闘の合間合間に勉強していたのでしょう。

 渡辺直己は広島高等師範学校(後の広島大学)を出て、呉で国語教師をしていて、徴兵されました。敵の陣地に落ちていた英語の教科書を見て、こんな戦場でも勉強をしている敵の学生兵を思い、教師として感じるところは多かったでしょう。

 

 中国戦線での同じような戦闘を歌った門井真には、次のような歌があります。

 

()りし陣地に血刀提げてすすりなき何時(いつ)かゐにけり隊長も兵も

 

死際の言葉わかねどうら若き支那兵は母よと呼びにけむかも

 

 最初の歌は、激しい戦闘の後で、やっと陥落させて占領した敵陣地で、気づくと、隊長も自分たち兵隊たちも、血だらけの刀を提げて、泣いて嗚咽していた、というのです。遠くから銃撃するような戦闘ではなく、剣や刀で殺しあう激しい白兵戦でした。なんとか自分たちは生き残ったものの、おそらく、たまたま切られたり刺されたりしないで、奇跡的に生き残れたような状態だったのでしょう。敵を殺した血だらけの刀を持って、なにがなんだかわからなくなったような状態で嗚咽していて、勝者も敗者もないような姿だったようです。

 もうひとつの歌は、陥落させた敵陣に残っていた若い中国兵のことです。「うら若き」と言っていますから、非常に若い少年兵でしょう。重傷を負っていて、死んでいくところですが、死に際になにか言ったようです。中国語はわからないが、「かあさん」と言って死んだのではないか、というのです。》

 

 

 

興味ぶかいのは

若者たちは

これらには非常に反応するということ

若者の心性のあり方において

なにかが日本では深く変化してきているのが感じられる

よいのか悪いのか

よいほうに向かうのか悪いほうに向かうのか

そもそも

なにがよいのか悪いのか

ともあれ

中年たちとも老年たちとも

同時代で同じ空気を吸いながら

まったく異なった感覚体たちが伸びてきているのが感じられる





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