2021年2月18日木曜日

あれらの樹々や木漏れ日とともに

 

 


小野茂樹

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

 

上田三四二

死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日一日はいづみ

 

 

 


日本ではじめての…云々

新型コロナワクチン接種…云々

というニュースを見ていたら

東京医療センターでの

医療従事者数人に対するもの

 

あゝ 東京医療センターね

駒沢公園わきの

世田谷区に入り込んだ目黒区のあの場所

末期ガンでエレーヌが死んだ病院

もう十年前の20101031日朝のこと

 

その夜明け前の当直の医員が

こちらへの電話連絡に

失敗し続けたので

30年来支えあい続けてきた彼女の臨終には

とうとう間にあわなかった

 

緊急連絡用に

家の固定電話の番号も

携帯電話の番号も

ちゃんとおなじ用紙に書き込んで提出し

病院には知らせてあったというのに

 

危篤状態に陥って

もう保たないかもしれないと判断され

朝の三時半頃から

医師は携帯電話に数度

電話してきていた

 

しかし就寝時には

電波による睡眠障害を防ぐため

携帯電話はいつも書斎に

置いて充電しておくことにしていたので

何度鳴っても寝室までは聞こえない

 

書斎は廊下の向こうにあって

寝室からはいちばん遠く

ベル音も大音量にはしていないので

起きている場合でも

遠くでなにか鳴っているとしか聞こえない

 

家の電話がはじめて鳴ったのは

朝の六時頃になってから

同じ書類に固定電話番号も記入してあるのに

どうしてこちらにはかけなかったのか

深夜も携帯は肌身離さないでいるとでも思ったのか

 

出かける準備をしながら

もう間にあわないと思ったので

そういう運命なわけかと思ったので

無理に急ぐのはやめてきれいに髭を剃り身仕舞いをした

死ねば一日じゅう忙殺されるはずだと思ったから

 

大通りでタクシーを捕まえ

環状線をぐるっとひと回りして

病院へ急行してもらったが

それでも4050分はかかる距離だった

車中で彼女の友人たちにメールや電話をした

 

緊急病室に入ったのは朝の720分頃

10分や15分ほど前に事切れていて

やはり臨終には間にあわなかったが

昨夜からもう意識はなくなっていたというから

あまり残念だとも思わなかった

 

当直だった若い医員は科長がいない時など

数ヶ月前からエレーヌを見るようになっていたが

エレーヌはこの医員を疑っていた

この人はなにかよくない感じがするとたびたび私に言っていた

最期の最期でこうなるのを予知していたのかと思った

 

末期ガンの彼女の治療や療養に一年半添い続けてきて

悪くなったりよくなったりのくり返しを

何度も見続けてきていて

ちょっとしたバランスの崩れでも死にかねないとはわかっていたの

この朝の死は驚くべきことでもなかったとはいえ

 

家の電話にかけてこなかったのはいつまでも腑に落ちず

数ヶ月経った後でも科長に電話して尋ねたが

大ごとにして追及したいというわけではなかった

訴えたいのならば然るべき形式で出してもらいたいと科長に言われたが

電話の件は担当医師の落ち度だとも聞いたのでそれでよしと収めた

 

あゝ 東京医療センター

悪い病院だと思っているわけではまったくないが

エレーヌの死をめぐってはこんなことのあったところで

名を聞くたびにどうしても

思い出さざるを得ない病院ではある

 

そういえば入院中のエレーヌが転倒して

頭に軽い傷を負って絆創膏が必要になった時に

大げさな包帯などしか備えがなくて看護師たちに怒鳴ったことがあった

病院なのにちょっとした怪我のための絆創膏もないのか!と

駒沢公園駅近くの薬局にわざわざ絆創膏を買いに出たものだった

 

あゝ 東京医療センター

悪い病院だと思っているわけではまったくないが

エレーヌの入院をめぐってはこんなことのあったところで

名を聞くたびにどうしても

思い出さざるを得ない病院ではある

 

そういえば悪くなってもよくなってもどんな病状の時でも

エレーヌに出される食事はいつも同じ内容で

病気の種類の違う他の患者たちの食事もどれも同じで

食べるものを通して体を治そうという考えは一切ない病院だった

おかずは不味かったがなぜか白米だけはうまく炊けていた病院だっ

 

あゝ 東京医療センター

悪い病院だと思っているわけではまったくないが

エレーヌの入院をめぐってはこんなことのあったところで

名を聞くたびにどうしても

思い出さざるを得ない病院ではある

 

2010年の夏にはエレーヌは瀕死の一時期を乗り越えたので

車椅子に乗せて病院の裏の林に連れて行ったりした

いつからある樹々かわからないが

太い大きな樹が生えている一角があって

木漏れ日やそよ風や空気の暑さを楽しんだりした

 

あゝ 東京医療センター

病院はしょせん病院でどうにもならないところがあると了解してはいるが

エレーヌの入院をめぐってはこんなこともあったところで

名を聞くたびにどうしてもあれらの樹々や木漏れ日とともに

思い出さざるを得ない病院ではある







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