2021年5月2日日曜日

踏まない

  

 

ただひとり賢者であろうとするのは大いなる狂愚である

ラ・ロシュフーコー

 

 

あす開戦となっても

たぶんわたしは驚かないと思う

アメリカは必死に中国との緊張をさらに高めようとしていて

他方中国は長期計画で日本をウイグルのように侵略しようとしているし

しかも政府の命令一下に人民解放軍兵士に瞬時にかわる中国人が

日本にはすでに公然たる工作員として大量に入り込んでもいるのだから

米中の板挟みになって新宿でふいに中国人による日本人狩りが始まっても

やはりわたしは驚かないと思う

ついでに大地震の後などに朝鮮人殺しが池袋で始まっても

以前にもあったことだし

と驚かないと思う

あまりにたくさんの理不尽なことを見聞きし

体験もしてきたので

子どもの頃から青年の頃まで育み守ってきた人間への信頼や

なにか温かみのようなものへの期待や

夢や希望のようなものまでが死に絶える人生を

静かに送ってきたから

 

さまざまな仕事から仕事へと移った後

20代で大きな進学塾に身を置くことになり

国力倍加の恐いものなしの狂騒のバブル期ということもあったから

そこでは「必勝」とか日の丸の印刷された鉢巻きを子どもたちにさせて

竹刀を持って教師が教室をまわるような日常が常態だったが

学校よりもはるかにマシな教師たちも多く

奇妙な混交状態が見られる面白い場所でもあった

しかしとんでもない教師はとんでもなさにおいて図抜けており

そこで働き始めて数ヶ月もしない時に見た吉崎先生の言動は

わたしを深いところから変えたもののひとつとなった

 

社会科専門の吉崎先生は他の教師たちからはひそかに憲兵と呼ばれていたが

彼とのわたしのふだんのつき合いにはべつに問題もなく

生徒らに対していつも怒っているちょっとうるさい先生としか見えなかった

しかし彼が教員室に呼び出した小学六年生への常軌を逸した対応を見た時

なぜ彼が憲兵と呼ばれるのか納得がいった

呼び出されたその生徒をわたしは教えていなかったが

よく勉強のできる生徒でもあれば頭のいい生徒なのも知っていた

授業後に吉崎先生に呼び出されたのは

きっと子どもならではの小さな悪戯かなにかを

友だちどうしの間でやったためだろう

 

わたしの席は吉崎先生の席からふたつ離れていたが

その生徒への叱責の様子はすべてが見えた

教師たちが授業時間外で行ういつも通りの生徒指導と思い

はじめは話の内容を聞いてもいなかったが

どうもヘンなことを吉崎先生が言っているとわかってきて

済んだ授業内容を記録するペンをとめて彼のほうを見た

 

生徒はどうやらキリスト教徒らしいが

おれは虚妄を信じるキリスト教徒を絶対に許さないと吉崎先生は言っている

だいたいキリストが奇跡を起こしたとか

マリアがあのようにキリストを生んだとか

よほどのバカかペテン師でなければ信仰することなどできまい

おまえの家は揃ってキリスト教徒だそうだが

どうしてそこまでバカになれるのかおれにはわからん

とにかくキリスト教をやめるかどうするか今ここで決めろ

さあどうするんだ?

バカ信仰をやめるのかどうか、どうするんだ?

 

ほぼこんな内容のことを本当に吉崎先生は言っていた

これって信教の自由の侵害というやつじゃないかと思ったが

それ以前にふつうならあり得ないような異常な言動で

ここまで本当におかしい振舞いを吉崎先生がするのははじめて見たので

驚いてわたしは周囲を見て他の先生たちの様子を窺った

知らんぷりをして机に向かっている人もいれば

時どき吉崎先生のほうを見ながらニタニタしている人もいて

雰囲気としては「また始まった……」と誰もが思っている感じがある

こういう突っかかりぶりとやり過ぎぶりが

吉崎先生は「憲兵」だという形容になっていくわけかと思ったが

白紙のA3のコピー用紙を出してくると

そこに十字架をマジックで描いてそれを床に置いてから

吉崎先生はさらに信じがたいことを生徒に迫った

 

踏み絵っていうのを教えたよな

ほら、ここにおまえらがバカみたいに大事にする十字架を描いた

これを踏め

踏み絵してみろ

そうしたら許してやる

はやく踏め、ほら!

 

十字架を踏んだらいったい何を許すというのか?

生徒がキリスト教徒だという罪を許すとでもいうのか?

それとも生徒がやったらしい悪戯かなにかを許すというのか?

 

あまりに異常なために逆にどこまでも冗談と見えもする振舞いで

まっとうに「信教の自由の侵害ですよ」と介入したら

冗談を理解しない者だと言われかねない微妙な雰囲気もあって

わたしはそのまま止めもせず吉崎先生と生徒を見続けた

周囲の先生たちがあいかわらずニタニタして聞いていたり

意に介さない様子で自分の仕事を続けていたりしていて

その環境では新入りのわたしとしては動きづらいこともあったし

吉崎先生がただの一教室の社会科教師であるだけでなく

数十の教室を擁するこの巨大な進学塾の社会科主任で

教材から学力テストから一手に制作してきている人物でもあったこともある

その職場では吉崎先生は実力者であり権威者でもあったので

わたしが簡単に口を出せる相手ではない雰囲気があった

 

十字架を踏めと言われた生徒は

立ったままニヤニヤして体を揺らしながら

いつまでも踏まないでいるので

吉崎先生は「ほら、はやく踏めってんだよ!」と言う

生徒はそれでもニヤニヤしながら

首を横に振って踏まないでいる

憲兵吉崎はしつこく「さあ、踏め!」「はやく踏め!」と言う

 

生徒はとうとう口を開いて

「踏まない」と答えた

答えながらニヤニヤし続けていたり

急にニヤニヤをやめたりする

憲兵吉崎は「踏まないで許されると思ってるのか?」と言う

生徒はやはり「踏まない」と言いながら

あいかわらずニヤニヤしたり

ニヤニヤをやめたりする

 

現代の日本ではあり得ないような光景を目の当たりにして

いったい何が起こっているのだろうか?

これを冗談事と思えないわたしの許容量が小さすぎるのだろうか?

などとあれこれ思いながら

時代錯誤のこの憲兵の出現や

周囲の先生たちの慣れきったニタニタ笑いや

意に介さない全くの無視の態度の中にいて

頭がぐるぐるまわり出すような感じになっていった

 

いま思い返せば憲兵吉崎の現出は

ふつうと見える人間が異常でもあり異様でもある目撃例の第一で

その後わたしは多くのその人たちなりの異常者たちや異様なる者たちを

次々と新たに見つめ続けていくことになった

いま現在の2021年時点でわたしの周囲にいる人間のほとんどが

憲兵吉崎よりもはるかに異常で異様であるように見えるのは

わたしの見方のどこかが狂ってきてしまっているのか

それとも古い夢のようなモラルや理想で頭が硬くなってしまってい

どんどん新しくなる時代について行けなくなったためだろうか

ラ・ロシュフーコーの言葉がどうしても思い出されてくる

「ただひとり賢者であろうとするのは大いなる狂愚である」

この狂愚の時代に賢者であろうなどとは

もちろん思ってもいないのだが

 

それにしても

小学六年生にして

まるでメルヴィルの描いた書記バートルビーに学びでもしたかのような

あの生徒のニタニタ笑いや

あの体の揺すりや

声を荒げて言うわけでもなく

きっぱりと自己主張しているわけでもなく

反抗的になどまったく聞こえない

あの「踏まない」は

何十年も経って思い出すと

ずいぶんと

見事なものだった

と思えてくる






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