2021年6月14日月曜日

仮の宿りに来ている


家事や雑事は

禅寺ふうに言えばどれもじつは作務であって

修行の本当の中心にあたる

掃除も洗濯も食器洗いも作務であり

買い物も作務

他人の世話も作務にあたる

それらはなにかのためではなく

それそのものに価値がある

 

そう見なせば

俗世にあって在家したまま

まわりに志を同じくする伴もなく

存在論も時間論も宇宙論も神霊論も交わす相手もなく

じぶんの体と心を生かし続けるていの作務の継続は

禅寺に入ってしまって

それなりの型を保証され

僧という身分さえ保証される修行のあり方よりも

はるかに

はるかに厳しい

誰も僧と見てはくれず

寺という避難場所もない

寺を必要としない強さを持つ者には

俗世は砂漠よりもふさわしい

 

ともあれ

作務は作務であり

人目にまったくつかないところで

掃いたり

埃を拭き取ったり

物を整理したりをくり返すのは

たとえようもなく貴重な行為である

 

体は霊と魂の宿であるから

それを洗ったり

その調子を整えたりするのも

たとえようもなく貴重な行為である

 

その宿に

仮の宿りに来ている

神である自分

マレビトたる霊である自分

ということに

いつまでも経っても気づかない者も

多い





0 件のコメント:

コメントを投稿