家事や雑事は
禅寺ふうに言えばどれもじつは作務であって
修行の本当の中心にあたる
掃除も洗濯も食器洗いも作務であり
買い物も作務
他人の世話も作務にあたる
それらはなにかのためではなく
それそのものに価値がある
そう見なせば
俗世にあって在家したまま
まわりに志を同じくする伴もなく
存在論も時間論も宇宙論も神霊論も交わす相手もなく
じぶんの体と心を生かし続けるていの作務の継続は
禅寺に入ってしまって
それなりの型を保証され
僧という身分さえ保証される修行のあり方よりも
はるかに
はるかに厳しい
誰も僧と見てはくれず
寺という避難場所もない
寺を必要としない強さを持つ者には
俗世は砂漠よりもふさわしい
ともあれ
作務は作務であり
人目にまったくつかないところで
掃いたり
埃を拭き取ったり
物を整理したりをくり返すのは
たとえようもなく貴重な行為である
体は霊と魂の宿であるから
それを洗ったり
その調子を整えたりするのも
たとえようもなく貴重な行為である
その宿に
仮の宿りに来ている
神である自分
マレビトたる霊である自分
ということに
いつまでも経っても気づかない者も
多い
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