2021年8月1日日曜日

別人

 

深夜にゴミを

ゴミ置き場まで捨てに行くことがある

 

高層階からエレベーターで地下まで下りていく

 

深夜なのでまず誰にも会わない

 

誰にも会う可能性のほとんどないエレベーターに乗って

高層階から地下まで下り

地下から高層階までまた上っていく

 

これは特別な経験といえる

ひょっとしたら異常な経験かもしれない

深夜1時を過ぎるとエレベーターはほのかに異空間になる

それは日中のエレベーターとは違うし

帰宅者の増える夕刻から夜のエレベーターとも違う

 

階の電光数字だけがどんどん変わるが

他はまったく変化しない

高さも変わり続けているが視覚上も聴覚上もそれは感じられない

いつのまにか地下に着き

いつのまにか自宅の階に着く

 

住み始めた当初はすこし恐れを覚えた

深夜のエレベーターに長くひとりで乗るのが怖く感じた

地下に着いて扉が開くのもどこか怖く

地階のエレベーターホールにおもむろに灯が灯るのも怖かった

自宅の階に戻れば戻ったで正面には外とホールを距てるガラスがあ

夜はそのガラスに明るいこちら側が映る

ひとりで乗ってきたエレベーターから下りる自分だけがガラスに映るが

自分以外にも誰か映り込んだりしていないかと怖かった

ホールに下りれば下りたで清潔だが無機質な壁の廊下を行くことになり

その無機質さが病院の廊下のようでもあって怖かった

 

何年もくり返したせいで怖さというものはまったくなくなったが

それは住み始めた当初にいちいち覚えた怖さを

自分の精神として吸収し尽くして自分が変質したからに違いない

あれらの怖さを世界や人間存在の当然の要素として

自分の血肉としたからに違いない

これはそれらを自分の血肉としていない人たちを差別することに繋がる

自宅から地上や地下への移動の時間を

無機質なエレベーターの中で長く過ごすことを当然としない人々へ

どうしようもない切断を精神の中に設置することに繋がる

住み場所や住み方が強いてくる変質とはそういうことで

いかに違った考え方や感じ方をしようと心がけても避けようはない

 

住み始めた当初

まだエレベーターが嫌いで不慣れで

自分の日常生活の中にこれが入り込むのなどあり得ないと思ってい

こんなものと日々つき合い続けていたら

自分はすっかり変わってしまって別人になってしまうだろうと思っ

 

今これを書いているのは

その別人なのである

住み始めた当初の人格も精神も感受性も心も魂も

もう片鱗さえ持っていない別人が

これを書いている

 

この別人が

ここに住む前のべつの住み方や暮し方を思い出して記してみる時

それは痛切極まりない思い出である

自分のことのようでありながら

二度と戻ることのない失われた別人の

まるで前世のことのような思い出なのだから





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