2021年8月30日月曜日

レミュエル・ガリヴァに

 

 

だが、それにしても、ヤフーの臭気は依然として鼻もちもならないので、

鼻の穴にはいつも芸香か、ラヴェンダーか、煙草の葉をしっかり填めている。

ジョナサン・スウィフト『ガリヴァ旅行記』(中野好夫訳)

 

 

 


まったく関わりもない

興味もない世界のことなので

ニュースごしにであれ

芥川賞とか直木賞の贈呈式という風景に触れることはない

 

そもそも「文学」などと

時おり

不注意に

また不謹慎に

他ならぬ最も「文学」から遠いであろう者たちによって

呼ばれてしまうなにものかを

断じて「文学」などとは呼んではならないと

激しく小突かれ続けたポストモダンの長い時期を生きた者としては

あいかわらず

作品

などという単語は軽々には使えないままであるし

書物

なども

長大な注釈なしには決して安易には使えないままで

なにかひとこと言おうにも

あまりにもどかしく煩雑に込み入ってしまうがために

やはり誰がなんと言おうと

20世紀以降の唯一の言語使用形態である散文ではなくて

どこまでも曖昧と不徹底とゴマカシの器でしかない

アポリネール以後の自由詩形式を

もちろん

としてでなどなく

の外部から窃盗犯的に用いて

フルに曖昧と不徹底とゴマカシという機能を生かして

かろうじて安価なgadgetなみの点灯指示程度の用途を担わせようか

やっぱり

途中で放り出してしまおうか

などという戯れ言をする他なくなってしまうのだが

 

それにしても

うっかり

共同通信の伝える芥川賞・直木賞の贈呈式(動画付き)の

受賞者らの言葉を聞いてしまって

驚愕した

 

そこでは

文学

なる言葉がなんの衒いもなしに発語されてしまっており

それどころか

私の文学

などという表現さえヌルリと蕩け出していて

これはまァ、なんと暴力的な!

これはまァ、なんと繊細な思考を根本から欠いていることか!

これはまァ、なんと淫猥淫蕩猥褻反社会的な!

思わず意識内で単語が並んで行きそうになるほど

心底

驚かされてしまった

 

文学で暴力に抵抗する

などという

今どきロマン・ロランですか!?的なキャッチも目に入ってきて

文学なるものができる抵抗はつねに後出しジャンケンでしかないからァ…

事実論をうっかり

これもまた

意識内で単語並べしてそこに乗せて行こうとしそうになったけれど

まだ若い子だから

正義の側にじぶんが立っているかのような口ぶりで

言ってみたいのネ

と思い直し

それに

どうやら

知らないのだろうネ

思うのだった

思ってしまうのだった

 

人を殺して歴史から消え去ったフランソワ・ヴィヨンのことや

20世紀詩人としては誰よりも革新的だったエズラ・パウンドが

ムッソリーニ支持や反ユダヤ主義であったことや

そこらの芥川賞作家が束になったよりも人類的価値のある

ルイ=フェルディナン・セリーヌが

彼の誠実な人間・社会観察の結果として反ユダヤ主義者になったことや

反ユダヤ主義といえば誰よりもドストエフスキーが

徹底的であったことや

イタリアファシズムの先駆となったといわれ

ムッソリーニが多くの手法を学び取ったガブリエーレ・ダヌンツィオが

ちょっとやソッとの平成令和作家よりも遙かに抜きん出ていること

ナショナリズムや反ユダヤ主義を体現した名文家で

アナトール・フランスと人気を二分した一大流行作家モーリス・バレスや

極右イデオローグとして書きはじめたモーリス・ブランショや

そのブランショが秘書をしていたファシスト作家

対独協力者ドリュ=ラ・ロシェルが

資本主義と共産主義に対抗する思想としてファシズムを捉えていたことも

たぶん

知らないのだろう

知らないのだろうネ

思ってしまうのだった

 

いろいろな点で

子どもの国か、ここは?

子どもの国になってしまったのか、ここは?

と思わされること

ばかりだが

 

そうか

いつのまにか

こちらが

レミュエル・ガリヴァに

なって

しまって

いた

ということなのか……





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