詩人でもないのに
自由詩形式を使って単語ならべをしてみるようになって
もう
ながいことになる
この遊びを
自由詩形式単語ならべ
とでも
名付けておこうか
と
思ったりするが
なんだか
そういう名付けをするのも子供じみているので
やらない
それにしても
自由詩形式なんか使ってみると
なあぁんにも言えない
ということが
ほんとに
よくわかる
なあぁんにも言えないのだ
ほんとに
ちょっと言いたくなったことのうちの
ほんの一部だけ
取り上げて
やるせないほど俗悪な照明をして
一瞬の効果だけを
獲得
しようとする
自由詩形式っていうのは
そういうもの
けれど
じゃあ字数の多く使える小説や論説ならいいのかというと
あれだって
どうしようもないほど
なぁんにも言えない
サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』や
もっと小振りのジャン・ジュネ論『聖ジュネ』みたいに
巨万の単語を使って
大言壮語しようとしてみてもいいが
それだって
なあぁんにも言えない
小説ときたら
もっと
ひどいペテンだ
書き込む
とか
描き込む
とか
いろいろ紋切り型の形容が
小説のまわりには電子のように回っているが
たとえば
人物たちの服装や
室内の調度などの書き込みように注意して読んでみたらいい
まったく描き込まれてなどいない
ある人物のある時の服装や着物はずいぶん描き込まれているのに
その人物の他の時の姿の書き込みはなおざりにされ
他の人物の服装に到ってはまったく描かれないなどということが
唖然とするほどあり過ぎる
いくらでも単語を使用できるはずの小説にしてさえ
そんなものなのだ
小説小説小説と言うが
結局あれは自由詩の長大版に過ぎない
最初から完全な描き込みは無理だと覚悟してかからないと
長編詩としての小説の本質を取り逃がす
そこへ来れば
自由詩などは堂々と
最初から不完全さを看板にしているんだから
大したものだ
オレ
書き込みなんてできねえよ
書き込む気
最初からねえよ
って
公言している
宣言している
そこから
逆の自由さや完全さを
引き出してさえ
いる
詩人でもないのに
自由詩形式を使って単語ならべをしてみるようになって
わかったのは
こんなようなこと
なんでも
実際にやってみないとわからないことがある
いっぱいある
ヘタの横好きでもなんでも
やってみてはじめてわかることが
ほんとにいっぱいある
なぁんにも言えない
ということも
よく
わかる
なぁんにも言えない
ということも
けっこう
味があったりする
ということも
わかる
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