寺山修司が谷川俊太郎とともに
「巷の現代詩を取材しにでかけた」時の文章を
ひさしぶりに見る*
そんなに易く、
ことばが詩に成る状況に出会えるか
どうかはわからないが、
とにかくその日一日、
新聞記事から広告、
町のあんちゃん達の会話などに気をつけてみよう
ということだったらしい
浅草の埃っぽい裏通り、
日ざかりのアスファルト、
ころがっているドラム缶…
そうして
巷の
詩、詩、詩
私たちは少なくとも数篇の詩に出会った
詩はふいに顔をあげた愚連隊の若い男のことばであったり、
灼けたトタン屋根にはげかかってあるポスターの
文字であったりした
子供たちがうたっていた
「ふるさとまとめて花いちもんめ」
「ふるさとまとめて花いちもんめ」
という章句のなかの
奇怪なイメージに心をうたれた
痩せた、どこか傲岸そうな男の子が、
自分だけ指名してもらえずに
高い声で
「ふるさとまとめて花いちもんめ」と
どなっているのだが、
同じ章句を
転向したコミュニストが胸を病んで
「ふるさとまとめて花いちもんめ」とうたったり、
床屋が日なたでうたったり、
肉づきのいい娼婦が私と同じベッドの中で
「ふるさとまとめて花いちもんめ」とうたったり
しているさまが
一瞬思いうかんだ
紙では書きつくしえない
不可思議な感動
町のある窓に
新聞紙が広告を見せて開かれてある
「お洗濯はザブ」
という文句が目にとびこんでくる
そうして
寺山修司は
私は前に「巷の現代詩は生命への啓示だ」とかいたが、
このザブの文句には不思議な実質がある
と言うのだが
彼のことばがこういう考えのほうへと向かい出すと
面白くなくなっていく
そっちへ
向かわなければいいのに
そっちへ
向かわなければいいのに
留まっておくべし
「お洗濯はザブ」に
「ふるさとまとめて花いちもんめ」に
面白くあり続ける忍耐が
必要だ
言い過ぎなさ
の
忍耐
面白くなくなっていく
考えの
ほうへと向かい出す
のを
やめる
忍耐
詩は字にする必要などないのだ
ましてや
字にすることの効果から逆算して詩を書くべきではないし
字を過信すべきでないことは自明である
ふいに
飛んでしまおう!
たとえば
啄木へ!
夜寝ても口笛吹きぬ
口笛は
十五のわれの歌にしありけり
そうして
そうして
そうして
「お洗濯はザブ」!
「お洗濯はザブ」!
「ふるさとまとめて花いちもんめ」!
「ふるさとまとめてザブ」!
*歌集『血と麦』所収、「行為とその誇り」(1961)
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