書くためにだれかがいたこととか、読むだれかがいたこととか、
ル・クレジオ『愛する大地』
Qu’importe qu’il y ait eu quelqu’un pour écrire, et quelqu’un pour lire ? Au fond, très au fond, ils sont le même, et ils l’ont toujours su.
J.M.G.Le Clézio : TERRA AMATA Prologue
ひさしぶりに
ロラン・バルトとモーリス・ナドーの
『文学とはなにか』*を開くと
ナドーが
モーリス・ブランショのことばを引いている
文学はどこへ向かうか?
それ自身へと向かう。
その本質へと。
すなわち消滅へと。
ぼくは驚く
若いことばだ
若い問いだ
と
歳を重ねれば
文学はどうでもよくなる
文学がどこへ向かおうとも
文学論を書いたり
対論したりして
小金を稼ぎ続ける業界人だけが
書生っぽのように
いつまでも
文学文学文学・・・
言うだけのこと
手にとった小説や詩が
おもしろいか
どうか
数ページ読んでみて
この先も
まだ読み続ける気になれるかどうか
業界人以外には
それだけが
重要な問いとなる
そして
それこそ
まさに
至上の問いというべきだ
たとえば
きみは
シャルル・ド・ゴール空港内の書店にいる
これからモスクワに飛ぶ
機内で読む本は持っている
いかにも「文学」な
分厚いプルーストの『ゲルマントのほうへ』も
最近のミステリー本も持っている
レヴィナスの哲学書さえも持っている
なのに
もう一冊か二冊
未知の世界に通じるような本を
搭乗前にほしいような気になっている
そうして
これまで購入するなど
思ってもみなかったような
もう一冊か二冊
の本に
出会いたくて
ふだんなら手に取らないような本を
つぎつぎと手にとり
めくっていく
至上の問いの時だ
*Sur la littérature
(Roland Barthes+Maurice Nadeau, Presses universitaire de Grenoble,1980)
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