『言語にとって美とはなにか Ⅱ』で
吉本隆明が
「具体的な生活のなかから、芸術がひきだされてくる共通の要因とはなにか、
それはどのような普遍的な法則にむすびついているか」
と問いながら
ハリソンの『古代芸術と祭式』から引用している箇所があるが
それを読みながら
ハリソンが「意向」と呼んでいるものが
なかなか
おもしろかった
「春祭り」の dromenon に於て
彼の行いは単なる歌と踊りと真似であって非実際的であるが
意向は実際的であり、
己れの食料資源の復帰を招来することである。*
芸術が
人生の直接行動とは
縁を切っている
というのも
言われて見れば当たり前のことだが
よく言い切った
と思い直させられる
こう言い切ることで
力が来るのだ
芸術論だけでなく
思考を言葉で行なう現実的効果は
こういうところにある
なお
このあたりのハリソンの引用は
次のとおり
祭式は人生の再表出または予表出、再行または予行、うつしまたは真似であるのを我々は見たが、併し――これが大切な点である――常に実際的な目的を有する。芸術もまた人生及び人生情緒の表出であるが、併し直接行動と縁を切っている。行動が表出されることはあり得るしまた屢々表出される。併しそれは更にその先の実際目的に進んでゆかんが為ではない。芸術の目的は己れ自らにある。その価値は間接 mediate ではなくて非間接 immediate である。こうして祭式は云わば真人生と芸術との間の一つの橋をなすのである、それは原始時代に人が何うしても渡らなくてはならぬ橋といえよう。現実生活に於て彼は狩り漁り耕し播く。彼は自分の食物を得る実際目的に全心を傾けているからである。「春祭り」の dromenon に於て彼の行いは単なる歌と踊りと真似であって非実際的であるが意向は実際的であり、己れの食料資源の復帰を招来することである。劇に於ては表出は暫らくは同じままでいたでもあろうが、意向は変更を見た。人は行動から脱して、踊り手から分離し、そして見物人となった。劇はそれ自体一つの目的である。
*吉本隆明 『言語にとって美とはなにか Ⅱ』(角川ソフィア文庫、1990)
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