間違った映画の見方をしている人が多い
それとは逆になる言い方だが
むかしから映画の正しい見方を知っている人は
じつは
すごく多かった
とも思う
ずいぶんむかしの映画館は入れ替え制ではなく
映画の途中で出たり入ったりが自由で
ある映画の終わる10分前に入ってきて最後を先に見てしまい
ずっと座り続けてその次の上映を見
終わる10分前頃に出て行く
そんな見方がざらにあった
最後の10分は最初に見てしまったから
見直す必要はない
という考え方だ
子どもの頃に怪獣映画などを見につれていってもらって
父や叔父や祖父や近所のおにいちゃんたちが
よくこういった見方を強いてくるのでアタマに来た
映画の終わる15分前くらいにもぐり込んで
後ろのほうで最後のクライマックスを立ったまま見てしまう
次の上映回でよさそうな席を見つけて座り
最初からじっくりと楽しみながら見る
ところが終わりの15分ほどになってくると
「ここはさっき見たからもう出よう」
と大人たちは言い出すのだ
子どものぼくはクライマックスを何度でも見たいし
さっき見た時は後ろのほうで立って見ていただけだから
落ち着いてみられたわけでもなかったので
ここで出てしまうなんてぜったいに許せない
映画が終わってもしばらく音楽も流れるし
俳優や監督の名前も流れたりするが
映画の余韻に浸りながらあれを眺めているのも気持ちいい
怪獣映画をわざわざ見に来た状況下では
子どものぼくが中心なので
もう一度最後まで見終えたい
と言えばその通りに大人たちも動いたが
たびたびくり返されるこういう大人たちの態度に
子どものぼくは驚き呆れ苛立ち
まったく理解できないでいた
けれども
つね日ごろ多量の映画を見ているうちに
映画というのは
じつは
むかしの落ち着かない大人たちのような見方が理にかなっている
と思うようになってきた
とりあえず
映画はストーリーで繋がれていて
プロットであちこちにスパイスが効かされている
ふつうはそれらをしっかり見て
それらにガイドされて見るわけだが
多数のシークエンスやイメージの束である映画は
ストーリーという仮縫いの糸を解いてしまえば
まったくべつの編集にいくらでも委ねられる情報の束といえる
旅に喩えてみれば
慣れない場所への旅をする際に
とりあえずガイドさんに任せ
A―B―Cという名所を辿っていく行程を行くことにする
しかし実際に旅をはじめて見ると
A―B―Cの行程の間にはいろいろなものを見聞きするし
ガイドブックにもない面白いものがたくさんあったり
予想もしなかった出会いがあったり
おいしかったり疲れたりうんざりしたり気持ちよかったり
アホくさかったり啓示を受けたような感銘を受けたり
A―B―Cとはまったく関係ないいろいろなものが押し寄せてくる
旅が終わってみると
けっきょくA―B―Cはそれほど大事ではなくて
それ以外の予期もしなかった経験の数々のほうこそが
ああ、旅をしたな!感を裏打ちしてくれる
映画もかなりこれに近くて
多量に撮った映像から選り抜いて監督が編集して
ひと連なりに繋いでみた一本の作品なるものは
じつは観客にはどうでもよくて
観客のほうでは
じぶんの精神や意識の事情に合うような素材が
監督の意図などとはまったく異なった収集ができれば
それこそが素晴らしい
考えてみれば
大部の書物などでは
人は自然とこういう振舞い方をしているのだし
映画も
数十年前とは違ってすでに厖大な量の情報の海となっている以上は
作品という見方をあえて乱暴に捨て去って
観客側優位のただの情報のため池として用いるべきだと思う
多量のB級もののSF映画を見続けてみて
特に『ブラック・イースター』(ジム・キャロル、2021)*を
ついにこれを確信するに到った
ストーリーもプロットも
旅行のガイドさんの導きや解説程度に適当に見ておくようにし
一画一画やシーンやシークエンスが
ほかの誰でもないじぶんの今の意識にもたらす効果や印象だけを
重視していくこと
ちなみに
『ブラック・イースター』は
時空を超えたテレポーテーションの話だが
あまりに頻繁にテレポーテーションさせ過ぎるので
作品としての構造やプロットのコントロールにひずみや歪みが出て
作品統括の論理は破綻してしまっていくが
それでも科学技術や認識の驀進が続く21世紀の今後を考える際に
とても役に立つ示唆に溢れている
テレポーテーションでは
『ザ・プロジェクトー瞬間移動―』**も
『ショートウェーブ』***も必見だろうが
多くの人のなかに猶も根付いている
まるで時間が過去→現在→
旧態依然の自然主義小説ふうの意識を壊すためには
昨今いよいよSF的な意識フロンティアに
誰もが直面せざるを得な
遺伝子操作や時間空間の改変に密着しながら
『エイリアンVSエクソシスト』****や
『デス・ライナーズ』*****も見ておくのは必要だろう
これらを多量に見ることで
古すぎる意識のありようを洗い流すべき時期に来ている
しかもこうした洗浄用の動画は
B級映画と見なされる部類のSF映画群にこそたくさん収容されて
「芸術的」ないし「文化的」に優れた「作品」や
それへと傾斜していくばかりの狭隘な埃のかぶった精神から
今こそ全力で逃れること
ウィトゲンシュタインを思い出しておこう
論旨は違っているが
「馬鹿馬鹿しい」と見えるものにこそ重要な鍵を嗅ぎとっている
という点で
思い出していく価値がある
「馬鹿馬鹿しくて単純素朴なアメリカ映画からは、
そのまったくの馬鹿馬鹿しさのゆえに、教えられるところがある。
たわけてはいるが単純素朴ではないイギリス映画からは、
私はしばしば、馬鹿馬鹿しいアメリカ映画から学んできた」
*『ブラック・イースター(Black Easter)』(ジム・キャロル、2021)
**『ザ・プロジェクトー瞬間移動―(Anti Matte)r』(ケイヤー・バロウズ、2017)
***『ショートウェーブ(Short Wave)』(ライアン・グレゴリ-・フィリップス、2018)
****『エイリアンVSエクソシスト(6 giorni sulla terra)』(ヴァロ・ヴェントーリ、2011)
*****『デス・ライナーズ(Tell Me How Die)』(D.J.ビオラ、2016)
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