汝自身を知れ
とか
自分とはだれか
とか
そんなことを思うのも
まだ
若いうちのこと
しっかり
すれっからしになると
自分など
だれであってもいいのだと
思うようになる
生きのびるとは
すれっからしになること
グルジェフは
「自分」とは複数であり
多数だ
と断言している
人間は永続的かつ普遍の〈私〉など全く持っていない
あらゆる思考、気分、欲望、感覚が〈私〉を主張する
(…)人間は一個の〈私〉をもっていないのだ
そのかわりに何百何千というバラバラの小さな〈私〉があり
それらはほとんどの場合互いに他の存在を全く知らず
接触もなく
それどころか、互いに敵対的、排他的で
比較さえできないのだ
一分ごとに、いや瞬間ごとに、
人間は〈私〉
そしてそのたびに彼の〈私〉は違っている
あるときは思考であり、あるときは欲望、またときには感覚、
ときには別の思考という具合に果てしなく続くのだ
人間は複数なのだ
人間は多数なのだ
(…)人間は常にその時々に現われた〈私〉の中に住んでいるのだ
このグルジェフの断言は
このまま
直接に
ドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』に繋がる
われわれは『アンチ・オイディプス』を二人で書いた
二人それぞれが数人だったのだから
それだけでもう多数になっていた**
そして
もちろん
聖書に出て来る悪霊にも
イエスが舟から上がられるとすぐに
汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
(…)
イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。
後生だから、苦しめないでほしい。」
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」
そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、
「名はレギオン。大勢だから」と言った。
そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、
イエスにしきりに願った。
ところで、その辺りの山で豚の大群が餌をあさっていた。
汚れた霊どもはイエスに、
「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、
すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、
湖の中で次々とおぼれ死んだ。***
多数
と
ひとつ
と
いうこと
これはヨーロッパ思考の根幹に
つねに
解き得ぬ問題としてある
君主政から民主政への移行にあたっても
多数とひとつの変換に際して
詐術が用いられた
主権は単独者にしか帰属し得えず
単独者の意識によってしか統御され得ないが
それが複数者によって可能であるかのように騙したところに
民主政の永遠の呪いが起動することになった
外的なものと見える政治権力の問題は
つねに一個人の内的な問題の表象でもある
人間は複数であり
人間は多数であるゆえに
そして
レギオン
大勢であるゆえに
汝自身を知れ
とか
自分とはだれか
とか
これらの問いは
汝を
自分を
単数扱いにしているゆえに
最初から錯誤へ誘導しようとする悪魔の問いと言える
哲学の批判者であった
ドゥルーズ+ガタリが
二人それぞれが数人だったのだから
それだけでもう多数になっていた
と暴くのも
当然のなりゆきだった
人間は
レギオンに支配されたまま
永続的かつ普遍の〈私〉を持てないまま
肉体的な歳月だけを重ね
精神が成長するでもなく
心が冴えわたっていくでもなく
むしろ鈍く曇っていき
すれっからしになっていく
しかし
すれっからしとなる中で
レギオンとのしぶとい戦い方を
じつは
すこしずつ身につけていく
とうの昔に負けて
〈私〉など
外面を保つためだけの
古びたラベルや
ぺらぺらの仮面でしかなくなって
見通しも
戦略も
武器もすっかり尽きて
すれっからしに成り切ったところでこそ
レギオンを倒すチャンスは来る
ふいに思い出されてくる
ジョージ・マクドナルド『リリス』の一節
真実はすべての中にある
物事の本質は
隠れたり
現われたりを
同時にしながら
物事のうわべに潜んでいる****
では
方法は?
なにも変えるな
すべてを変えるために
これは
ロベール・ブレッソンの言
* P.D.ウスペンスキー『奇蹟を求めて グルジェフの神秘宇宙論』(浅井雅志訳、平河出版社、1981)
**ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』(宇野邦一・小沢秋弘・田中敏彦・豊崎光一・
***『マルコによる福音書』 5章1~20節
****George MacDonald LILITH, 1895.
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