いまの住まいは
外に出て行くたびにエレベーターに乗るので
乗っているあいだも
エレベーターが来るまでのあいだも
手持ち無沙汰の時間がある
はじめのうち
だれもがそうするように
いらいらしながら
あるいは
いらいらを装いながら
待っていたり
乗っていたりしていたが
そのうち
短いが毎日なんどかくり返す
この超小間切れ時間も
利用しない手はないと思い立ち
ポケットに入るぐらいの小さめの本を
いつも持つようにして
エレベータホールで待つ時や
エレベーターに入った時などに
すぐに取り出して読み出すことにした
一回ごと本を開けるたび
もちろんたいして読めはしないのだが
それでも毎日数回となると
何ページかは進んでいく
これがけっこうバカにならず
今年に入ってから
いつのまにか
文庫本で三冊ほどの分量を読み終えてしまった
だいたい
大部の本をこそ読みたかったりするので
その時にいちばん読みたいものを持って出るわけには
なかなかいかないのが
問題といえば問題なのだが
いつか読んでおくかな
と買い溜めしておいたうちの
なるべく薄いものを選り好みせずに持って出て
エレベーター用本を
エレベーター用読書時間に読む
とあきらめて読めば
そこそこ
発見もあったりするのだから
それはそれ
超小間切れ時間も
まあまあ
有効に使えたことにはなって
良きかな
良きかな
しかし
カントの『純粋理性批判』なんかは
読んできたところの微妙な論理の記憶が
次の小間切れ時間までにはだいぶ薄れてしまっていて
エレベーター用本にも
向き不向きが
あるようだなあ
とも感じる
複雑かつ多層的ではあっても
物語もののほうが
記憶は薄らがない感じで
物語なるものの力を
エレーベーター時間によって
再認識させられている
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