おまえには耳がなかった
蒼ざめて鋭くなった眼だけがあった
小さな炭火のように
燃えているわたしの心よ
脅しかけるおまえの影から
たったひとつの温かさを守ろうとして
吉本隆明 『エリアンの手記と詩』 Ⅶ エリアンの詩(Ⅱ)
世の中で
あたまがいいように振舞う人って
既成の枠組みを
てきとうにヒョイヒョイ繋げたり
重ねあわせたりして
あちこちに起こっている問題を説明してみせたり
ここをこうして
そこをああやれば
解決じゃん!
と言ってみせる人たち
そりゃあ
解決するさ
ここをこうできて
そこをああやれれば
そりゃあね
そういう人たちは
ここはこういうふうに認識して
とか
そんな認識ではだめで
とか
ここのコンセプトはこうで
とか
どんなコンセプトなんですか?
とか
そんな話し方をしまくる
あゝ
コンセプトって
フランスの哲学者ドゥルーズが
哲学以外の世俗の場所で不正確に使われることに
激怒していた
ドゥルーズ哲学の軸のひとつを成す哲学用語*
それに
認識
ねぇぇぇぇ
すべての認識は誤謬でしか
ありえない
と
ニーチェは言ったが
『ツアラトゥストラ』あたりからちょこっと読んで
こんなもんか
ニーチェ
とわかった気になって全集を視野に収めるのをやめると
絶対に行き着き得なくなる
ニーチェの核心
世界はつねに流動しており
生成過程にあり
それゆえに世界を見ることも
把握することもできない
そういう
ニーチェの「生成の哲学」の立場から見れば
認識とは
流動せず固定化されたものを
ひとつのまとまったものとして捉えうると盲信する
というだけのことなのだから
認識はじつはどんな場合にも成立しえない
あらゆる認識は誤謬であり
太古の人間が生存のために作り上げ
積み上げてきた
生の条件である世界認識も
ニーチェに言わせれば「根本誤謬」でしかない**
世界は生成そのものであり
世界の真理を掴みたければ
生成そのものをこそ掴まねばならないが
「根本誤謬」を破壊しなければ
それは達成されない
ニーチェによれば
生をまるごと滅ぼす以外には
「根本誤謬」を滅ぼすことはできない
諸物の流動という究極の真理は
人間への血肉化はできないものであり
われわれの生のための器官は
誤謬ばかり掴むようにできている***
アルベール・カミュが『シーシュポスの神話』の冒頭で言った
「真に重大な哲学的問題はひとつしかない
自殺だ」
という表明も
ニーチェの「根本誤謬」とつなげて受けとめれば
純粋に哲学的な実践論と読める
ニーチェの根幹に関わる
このあたりの考察を思い出すたび
いまの世の
あたまのいい人たちの発語する
認識
認識
認識
が
なんだか
ラクトアイスかなにかのように
聞こえてきてしまう
乳製品を一切使わず
水とパーム油とガムシロップとレシチンと乳化剤あたりで
作られるラクトアイスかなにかに
乳化剤はもちろん
界面活性剤のグリセリン脂肪酸エステルなどで
着香料にはバニリン
人口甘味料には
発がん性のあるサッカリンだったり
そんなものでできている
ラクトアイスかなにかに
*『ディアローグ ドゥルーズの思想』(河出文庫)のクレール・
**『悦ばしき知恵』(『悦ばしき知識』『華やぐ智慧』とも)
***このあたり、ニーチェが出版しなかった覚え書きの1881
0 件のコメント:
コメントを投稿