2022年9月15日木曜日

ヒュヒュヒュ サササ ヒョイヒョイヒョイ


 

 

        

長すぎる

 ジュール・ルナール

 

 

 

 

あらゆる領域で

モノが多すぎてしまっている

 

このことが

芯からわかっていない人たちが

少しでも残すべきもの

少しでも残るべきもの

という概念がいまだにこびり付いている領域に関わっていると

悲劇だな

悲喜劇だな

痛々しくなる

 

アート

などと呼んでしまえば

使い捨ててもいい感じで軽く思えるが

芸術

だとか

文芸

だとか

芸能

だとか

こう

なってくると

痛々しい光景が

さんざんっぱら散らばっている

 

それらは

なんであれ

受け手を必要とする

しかも

冷やかしでちょっと見て

さっと去っていくような受け手では不満で

じっくり立ち止まって

感想をこれまたじっくり言ってくれて

さらに再三見直して

また味わせていただきますです

ハイ

なんぞという

受け手というより

ファンがほしくってたまらないわけだ

 

ところが

昨今

受け手さんがたは超多忙でござる

じっくりなんてしてられない

なんでも倍速で見捨てていく時代なのだ

本なんぞ目次と章題だけでササッと済ましていく

 

それでも

人というのは

なんかしら

美や快との出会いを持ち続けたい

しかし

サッと済ましたい

ひとっところにズッといる

なんてことは

絶対にしないが

わあきれい

わあすてき

は一日に何度も何度もしたい

 

ってことで

スマホで流れてくる写真や

短めの動画なんぞ

ちょうどいい

ということになる

現に

そうなっている

 

言葉だって

読まないというわけではない

でも

グタグタ考えさせられるのは困る

言葉とじぶんとどっちが主人か?という

ハンプティ・ダンプティの問いは

とうに超えられてしまっていて

もう主人は受け手さんたちと決まってしまっている

親指でヒュヒュヒュである

サササである

ヒョイヒョイヒョイなんである

 

夜明けのしずかな浜に出てみると

ただ波の音が途切れずに響き続けていて

しばらく前に別れた瑠璃子のことが

ふいに思い出されてならなかった

ふたりでよくこの浜に来て

こんな夜明けの時間に

ことば少なに長く歩いたりしたことを思い出した

明けの明星が出ているのを見ると

ふたりの未来がどこまでも照らされているようで

これといった掴みどころもないようだが

しずかな至福の時を感謝したくなった

 

なんていうのではダメで

 

夜明け

しずかな浜

 

出てきてみると

ただ

波の音

 

響き続けて

 

瑠璃子

ふいに思い出される

あなた

 

ふたりして

よくこの浜に来て

ああ

こんな夜明け

ことばすくなに

歩いたね

 

明けの明星に

どこまでも

照らされていた

ふたりの未来

 

つかみどころもないような

でも

しずかな

しずかな

至福の時だったね

 

ぐらいに

飛び飛びに

行も空けて

言葉ならべしていかないと

なのね

 

ものは成るべくしてそう成っていく

 

スマホで

チョチョっと見られる

フォト

動画

短い言葉ならべ

 

十分なのだ

それで

 

長すぎたのだ

いままで





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