2022年10月6日木曜日

ひどい書きよう

 

 

 

時節若し至れば、仏性現前す。(……)

いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。

「時節若至」といふは、「すでに時節いたれり、

なにの疑著すべきところかあらん」となり。

道元『正法眼蔵』 仏性

 



 

 

道元の『正法眼蔵』からの引用には

いろいろなところで出会う

 

道元を持ち上げ

あの文章を有り難がる人びとは多いが

それにしても

ひどい書きようである

 

諸法の仏法なる時節、

すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、 諸仏あり、衆生あり。  

 

万法ともにわれにあらざる時節、

まどひなく、さとりなく、諸仏なく、 衆生なく、生なく、滅なし。

 

ひどい書きよう

というのは

読んで

まったくわからない気はせず

だいたいわかったような気になる

それどころか

かなりわかったような気になって

知的には悟りのとば口に立ったかのような

そんな思いにも到り

ちょっと感動したりもしてしまう

から

 

なんだか

小林秀雄なのである

 

言語表現ペテンの場である文芸や

言語詐欺の土俵である詩歌だの

なら

いいが

迷える魂を救おうという仏法の場で

こういう書きようは

ひどいのではないか

 

そう思わされてしまう

 

この「現成公案」のはじめなど

ちゃんと理解しようとするなら

どう考えるべき

なのだろう

ちょろちょろ

調べると

 

すべての有り様を仏法から見る時、

迷いと悟りがあり、修行があり、生があり、死があり、

諸々の仏がおられ、凡夫の人々がいます。

 

などという訳に

すぐ

出会う

 

そうか

 

すべての有り様を仏法から見る時、

 

いいのか…

 

かと

思うと

 

諸法が真理である時には

 

と訳すべきだ

という意見にも

出くわす

 

もう

だいぶ違ってくる

 

立川武蔵など

『空の思想史』*では

 

  諸法は真理そのものである時間だ

 

と解釈している

 

「諸法は真理であり、

それは時間なのである。

『諸法は真理の姿を採り、時間の中にある』のではなく、

諸法が真理であり時間なのである。」

 

とパラフレーズしていく

 

こう解釈していくと

非常に面白いが

 

諸法の仏法なる時節、

 

はたして

ここまでパラフレーズしていいのか

ここまでパラフレーズしないといけないのか

そう考えると

やはり

道元

ひどい書きようだ

と思う

こう言いたいなら

ちゃんと

はじめからこう書け

思う

 

そもそも

「諸法」は最初から「仏法」に含まれているはずであり

(でないと「仏法」に限界性があることになる)

どんな「時節」も「仏法」に含まれているはずであり

(でないと「仏法」に限界性があることになる)

諸法=仏法=時節

と書くべきか

諸法⊂仏法⊃時節

と書くべきで

 

諸法の仏法なる時節、

 

という曖昧な書き方をすべきではない

 

にもかかわらず

そんなことは

百も承知で

こう書いたのだとすれば

 

諸法の仏法なる時節、

 

べつの意味で読まれるべきだ

ともなる

 

そう考えると

頼住光子の解釈**は役に立つし

もっと

納得もいく

 

諸法の仏法なる時節、

すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、 諸仏あり、衆生あり。  

 

万法ともにわれにあらざる時節、

まどひなく、さとりなく、諸仏なく、 衆生なく、生なく、滅なし。

 

このふたつの部分

対照して読解すべきという方針を

頼住光子は

採る

 

「諸法の仏法なる時節」を

人間が仏法というものを意識し

発心し

修行を開始する時

と捉える

 

そういう時に

迷悟

修行

諸仏

衆生

いやまして鮮烈に

知的に問題化されてくる

あらゆる文節化が

発心する以前に増して

先鋭化し

襲いかかってくる 

 

こう

説明される

 

 「諸法の仏法なる時節」とは、人が眼前に見ている諸事物諸事象が、「無我」であるはずのものとして把握される時、つまり、そうであるはずなのにそのようには捉らえることができていない、現在の自己のあり方や物事の捉え方の問題性に気付いた時ということなのである。伝統的な仏教用語を使用して言い表すならば、「発心」、すなわち、修行の瑞緒の時ということができる。 ** 

 

そして

「万法ともにわれにあらざる時節」は

やや粗っぽく単純化して言えば

悟った時であり

悟った時には

修行を含め

悟りへ向かうあらゆる方向性や意識の解脱している時なので

悟りもなくなる

あらゆる文節化が消滅するからである

迷いもなく

さとりもなく

空となり

空となったということは空もなくなる

空もないということもなくなる

ナーガールジュナ(龍樹)の論理がこの上なくリアルとなる圏域に

一気に入り込む

というより

成り切る

というより

成る

という概念の使用される一切の土台さえ消滅し

消滅さえ消滅する

 

頼住光子は

こう

説明する

 

この第二段階を表現しているのが、次の「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。」 という言葉である。ここでは、「諸法が仏法なる時節」の叙述とは反対に、 あらゆる分節が無化される世界について語られている。修行の端緒にあった、迷いを離脱して「さとり」を体得するという目的は、迷いと「さとり」 という二元的分節化そのものを無化し、「空」そのもの、すなわち無分節を体験するというかたちで実現されるのである。

ここで注目したいのは、「諸法の仏法なる時節」と「万法ともに我にあらざる時節」の二つの時節が、あるものとして、またないものとして、挙げる事柄はほぼ一致しているのにも関わらず、「万法ともにわれにあらざる時節」においては、「修行」のみが落ちているということである。それは、 発心の時点においては、さとりを目指す修行が必要であったが、「さとり」 を体得したその瞬間においては、修行それ自体は、修証一等のものとして 「さとり」そのものとなり、修行については、ことさらに言及する必要はなくなるということを含意しているのだ。  

以上、その概略を説明した「現成公案」巻冒頭の二文によって、道元は、 修行とは何か、「さとり」とは何かという問題に対する、自己の基本的な理解を端的に述べていると言えよう。**

 

こうした解釈を踏まえて

頼住光子によれば

「現成公案」のはじめは

このように訳される

 

もろもろの事物事象が仏法上におけるそれとして把握される時節には、

迷・悟があり、迷を悟へと転じるものとしての修行があり、

迷いの世界であるとともに修行の場でもある生死の世界があり、

修行して悟る諸仏があり、

悟りと「一等」なる修行を行う衆生がある。  

 

万法すべてに「我」(自性)がない時節、

迷もなく、悟もなく、諸仏もな く、衆生もなく、生もなく、滅もない。 **

 

『正法眼蔵』を

道元が

修行とは何か

「さとり」とは何かについて

まず

端的なレジュメから入っている

という理解は

理にかなったものといえる

 

とはいえ

こう理解しようとすれば

なおさら

 

諸法の仏法なる時節、

 

という冒頭は

ひどい書きようである

と思える

 

ここまで

見てきた理解のしかたを

ちょっとのことで

ぜんぶ突き崩してしまうほどに

やはり

ひどい書きようである

 

 

 

 

 

*立川武蔵『空の思想史』(講談社学術文庫、2003)、p.270.

**頼住光子「道元の思想構造 ─『正法眼蔵』「現成公案」巻と「菩提薩埵四摂法」巻を てがかりとして」(「国際禅研究」第4号 2019-12 pp.67-80

file:///C:/Users/bodhi/Downloads/kokusaizenkenkyu4_067-080.pdf







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