スマホを見ていたら
「卒業写真」という古い曲がポッと流れてきたので
動画を開いて
聴いてしまった
フォークソングとして
ポップスとして
軽音楽として
まあ
名曲なんだろうと思うし
わざわざ
なんども聴いてみたことも
ある
けれども
歌詞の中で
いつも
うぅん…
と思うところがある
いくつもある
今回も
「人ごみに流されて
かわっていくわたしを」
というところで
やっぱり
ひっかかってしまった
この歌の
「わたし」さんから見たら
「人ごみ」のほうなんだろうな
ぼくなんて
と思ってしまう
「人ごみ」か…
「人」のゴミか…
などと
思ってしまう
もちろん
「人ごみ」は
「人」が込みあっている
ということで
「ゴミ」ではないのだが
なんだか
「ゴミ」と聞こえてきてしまう
荒井由実の歌詞には
濁音のちょっとした失敗が
けっこう多い
気持ちよく聞き流していこうとすると
あれっ…
というところがある
昭和の音使いの粗雑さだろうか
そんなことを思いながら
いつも
ひっかかる
「ゴミ」でなくても
「人ごみに流されて
かわっていくわたしを」
と歌っていて
「わたし」を悪く変えていくのだから
やっぱり
「人ごみ」は
いいものではない
そういう扱いになっている
「わたし」や「あなた」が
抵抗すべきものとして
「人ごみ」は
見られている
「人ごみに流されて
かわっていくわたしを
あなたはときどき
遠くでしかって」
というのも
なんだかなあ…
と思い続けてきた
「あなたはわたしの青春そのもの」
というのも
強烈に
ホルマリン漬けを
仕掛けられてきているようで
若者ふうに反応すれば
ウエ!キモワリィ!
である
「青春」の標本たれ!と
いつまでも
強いてくるわけ?
である
勝手に
変わっていけよ!
こっちも
勝手に変わってくからさ!
そう言ってしまいたく
なりそうだし
「ときどき
遠くでしかって」
という言い方なんかには
いちばん
カチンときてしまう
この
ヘンに
控えめな
お利口さんな
適切な
距離感さん?
いつも近くで見てて!
いつも叱って!
のほうが
よっぽどいい
わかりやすくて
動的で
反応しやすい
相互の間に
つねに
新たな運動が生まれ得る
「ときどき
遠くでしかって」
って?
この時間配分にまで
こっちで
配慮しなきゃなんないの?
控えめで
お利口さんっぽい
適切な
距離感さん
これって
とても理想的な
すばらしいような
でも
ひょっとして
最悪のひと?
って
感じが
どうしてもしてしまう
濁音といえば
あの芥川龍之介は
異常に濁音に敏感で
文章を書く際にも
「で」や「が」を使用するのが
なかなか我慢できず
自分に許せない時が多かった
たとえば
「僕はつい二三日前の夜
夢の中に彼と話してゐた」
と書く
「夢の中で」とは
彼の美意識が許さず
書けないのだ
また
たとえば
「夜ふけの往来は
靄といふよりも
瘴気に近いものに
こもつてゐた」
と書く
「瘴気に近いものが」とは
どうしても
書けないのだ
そんな
益体もないことを
思いながら
聴いてみている
「人ごみに流されて
かわっていくわたしを
あなたはときどき
遠くでしかって」
と
聴いてみている
流され
流され
流され切った末に
「あの頃の」
わたし
など
とうに失せ
「人ごみ」の
どこかの小さな泡のようになった
プチッとしているだけの
意識として
もう
青春時代の
あなた
あなた
あなた
など
どこからも見てくれず
しかっても
くれない
遠い
遠い
遠い
プチッとしているだけの
小泡となって
聴いてみている
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