2023年1月15日日曜日

眠っているあいだに荒れ果てた恐ろしい島に

 


 

今日はひさしぶりに

うすい雨が降り

乾燥しすぎた大気を潤してくれて

ときおり

咳の出やすくなっていた

喉や

気管には

よい恵みとなった

 


科学的思考を行なう主体は

悪い意味で

極端なほど安易に

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を基盤としてしまっている

 

自分の存在の根拠を問わず

ただ

なにかの対象をテーマとして「思う」というだけで

「我あり」としてしまっている

 

フランクフルト派の理性批判をまねて

ここに発生している主体を

道具的主体

と呼んでしまってかまわないだろう

 

科学的思考の主体は

すべて

科学の総体のうちの部分的主体でしかあり得ない

科学の総体は人間知の総体と考えてもよいだろうが

部分的主体でしかない「我」は

人間知の総体と連関し続け

語りあい続け

人間知の総体から方向を教えられつつ

行動命令を受けつつ

人間知の総体に欠けた部分を補完するような

知的な産出物を紡ぎ出し

それを人間知の総体に受け入れてもらっていくことで

「我」も人間知の主体そのものである幻想を見ようとする

 

ここにあるのは

なににも増して強大で

絶対的な支配構造であり

「我」の側から人類知の総体への強度の忖度であり

人類知の総体に対する「我」のたえざる同一化の意志である

 

しかし

人類知の総体なるものなど

ただの珊瑚礁にすぎない

珊瑚虫の死滅した後の

あの巨大な廃墟

 

くだらない

パスカルは言う

 

「無益にして不正確なデカルト」

デカルトを批判した

同時代の

科学者パスカル

 

パスカルは

天才的な科学者そのものでありながら

主体というものの構造が

永遠に自分自身を知り得ないよう構成され

措定されていることに

素直におののき続けた

 

主体は自分が「どこから来たか」

「どこへ行くのか」

知ることができないし

「眠っているあいだに

荒れ果てた恐ろしい島につれてこられた」ように

「だれが自分をそこに置いたか

なにをしにそこへ来たか

死んだらどうなるのか」などを

知ることができない

 

そういう主体が

科学の総体に奉仕する?

人類知の総体に奉仕する?

つかのまの奉仕の歳月の後に

死んでいく主体に

なにがもたらされるのか?

どこへ行くのか?

 

それらがわからないなら

科学の総体も

人類知の総体も

主体個人にとっては

壮麗に見える一場の夢以上のものでは

ないではないか?

 

ラカンに言わせれば

「主(あるじ)の語らい」における

ファンタスム(幻想)に過ぎないことになる

ラカンは

科学的思考の主体が

科学的知の成果を通じて得られる全体性を

ファンタスム(幻影)と呼んでいるから

 


おそらく

明日も

大気は湿りを含んだままだろう

雨も

少しは降るかもしれない

大寒が近づいてきているが

二十日もすれば

もう立春で

あたらしい空気とひかりの中へ

すべてのものが

入っていこうとする

 

 




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