フランス語では
「意味」や「意義」「価値」「存在理由」のことを
サンスsensというが
サンスsensは「方向」も意味する
だから
「ぼくの人生のサンス」という場合
「意味」や「意義」「価値」という意味が出てくるが
「方向」という意味も出てくる
ごたいそうに
大事なものだと言いたがる
「意味」や
「意義」「価値」は
結局
「方向」ということに過ぎなかった
そんな程度のことだった
という概念的解放が
ここからもたらされうるし
逆に
「方向」が失われれば
たちまち
「意味」や「意義」「価値」も
「存在理由」も
失われる
という悲観的認識も
まあ
導こうと思えば
導ける
それが
お好みならば
そう
お好みならば
むかし
サルトルは
どうして彼の初期の哲学や文学は悲観的なのか?
とインタビューされて
「あの頃は悲観的なのが流行りだったから」
と答えた
文学だの哲学だの
ついでに
芸術だのも
世間の風潮や色あいだのも
その程度のもの
ところで
フランス語のサンスsensの意味は
「意味」や
「意義」「価値」「存在理由」や
「方向」などだけに
留まらない
「感覚」だの「知覚」だのから始まって
「官能」「肉体的欲望」「性欲」も含み
かと思うと
「分別」や「思慮」
「認識能力」「勘」「センス」や
「意見」「見方」「観点」などまで
含ませてくる
「性欲」と「思慮」「分別」を
一語で賄うんだから
フランス語っていうのは凄いもんだと
学びはじめた頃は
面白がっていた
学びはじめた頃
お茶の水のアテネ・フランセの本科に通って
いつもなにかと忙しくて
お茶の水駅に電車が着くと
急いでお茶の水橋の交差点を渡り
かえで通りか
マロニエの街路樹の並ぶとちのき通りを
早足で歩いたり走ったりして
アテネ・フランセまで行った
温かみのある教科書の
モージェ・ブルーを第1巻から学んでいて
先生はフランス人のベルナール・レウルス先生だった
はやく駅に着いた時や
帰りの時に
たまに
レウルス先生と道で出会うことがあった
まだよく読めもしないのに
生意気に
ル・クレジオの
フランス語版の『愛する大地』を携えていた時など
今これ読んでるんです!
と先生に見せると
Terra Amataというラテン語の表題を見て
あぁ、Terre aiméeだね
とレウルス先生はフランス語で言った
あれは
たしか初夏の頃
まだ
マロニエの大きな葉が
青々と
街灯に映えて
これから一年のさかりに向かう大気が
だんだんと熱を増していく頃
ぼくの人生のサンスの
なにもかもが
まだかたちを取らず
すべてがこれからで
想像もできない大きな時空が
未来と呼ばれるなにものかとして
夜空のむこうに浮かんでいた頃
思い出しておこう
ミハイル・バフチン*の
ドストエフスキー論の
あの一節を
世界にはいまだかつて
なにひとつ
決定的なことは起こっていない
世界についての
また
世界の最後のことばは
まだ
語られていないし
世界は開かれたままであり
自由であり
いっさいはこれからであり
永遠にこれからであろう**
*Михаил Михайлович Бахти́н , Mikhail Mikhailovich Bakhtin
**Bakhtin, M.M. (1929) Problems of Dostoevsky's Art, (Russian) Leningrad: Priboj.
(邦訳『ドストエフスキー論 創作問題の諸問題』(新谷敬三郎訳、冬樹社、1974年)
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