人生は
無意味であり
無意義である
いまさら
言うまでもないこと
しかし
時々
こんなふうに言葉でしっかり書いて
忘れないように
刻印し直しておきたくなる
人生の
無意味
無意義は
すぐ
証明できる
もし
あなたの人生が有意味であり
有意義であるなら
あなたは
人びとによって注視され続けているだろう
有意味
有意義
というのは
人間集団の中での
はかない
当座の価値づけ可能性によってのみ
成立する
そして
人間集団が関わってくる際には
つねに
数の論理が
ふかく介入してくる
いま
あなたが人びとによって
それも
多くの人びとによって
日々
一刻一刻
注視されていないならば
あなたの人生に
意味はない
意義はない
意味
意義は
そういう性質のものであり
それだけのもの
でもある
逆に
あなたのほうだって
一瞬一瞬
四六時中
他人の誰彼を
注視してはいないだろう
ある他人について
あなたが知るのは
知ろうとするのは
あなたにとって利益となるピンポイントの
ごく一部分だけであり
その他人の総体でなどない
よく
人を全的に理解しないといけない
総体を理解しないといけない
などと
画に描いたような
理想的な人づきあいの心得っぽいことを
平気で口にする
教師っぽがいたりする
そんなことは
実質的に不可能だし
誰も
他人に対して
そんなこと
やりはしない
時間がないのだ
気力体力が続かないのだ
他人についての理解は
いつも
どこまでも
部分的で
抽象的で
いい加減で
気まぐれで
全体像も
総体も
知ることなどできないし
絶対に
わからない
というわけで
人間
おたがいに
相手のことなど
全的になど見もしないし
とらえようともしないし
考えようともしない
どの個人対個人にあっても
絶対にこのようであって
例外は
地上にはない
ごく一部しか見ていないのに
その相手の人生の
意味も
意義も
あったものじゃない
だいたい
自分自身のことさえ
ごく一部しか
とらえられないのが
人間の意識の構造というもので
よく凝視し
突き詰めて考究してみたところで
記憶はすぐに靄のように散り
数日も経てば
あなたはあなた自身にとってさえ
ふたたび
よくわからない朦朧体となる
なにもかも
どうでもいい
ということが
歳を重ねるほど
よぉく
わかってくる
生き続けていたって
なにがどうわかるわけでもないし
なにかわかったつもりになっても
どうせすぐに忘れるのだし
どんなに詳しく文章や図像に書き残しておいても
長い時間が経てば
そこに書いた内容をすっかり忘れているし
そもそも
読み返すのも面倒になっている
「まあ
あの時はこれが大事だと思って
こんなに細かく書いたりしたんだろうねえ
ハハハ」
と言いながら
ソファに座って
半分眠いような頭になっているだけ
せめて
死なないように
注意しなくちゃ
頑張らなくちゃ
そんな
思いもだんだんと薄らいで
大津波が来るのも
逃げずに
ボーッと見つめていられるように
なるよ
きっと
なる
それで
いいんだよ
0 件のコメント:
コメントを投稿