2023年3月16日木曜日

自由だと思い込んでおり

 

  

 

ここはなんと悲劇的な領域なんだろう

と少年は思った

 

下のこの領域にいる人々は囚人で

究極の悲劇は当人たちがそれを知らないということだ

 

自由になったことがないからこそ

自分たちが自由だと思い込んでおり

自由がどういう意味だか

理解していない


これは監獄なのに

それを推測できた人はほとんどいない

 

でもぼくは知っている

少年はつぶやいた

 

だってそのためにこそ

ぼくは

ここに来たのだから

 

壁を打ち破り

金属の門を引き倒し

それぞれの鎖を

引きちぎるために

 

脱穀をしている牛に

くつわをかけてはいけない

少年はトーラを思い出した

 

自由な生き物を収監しないこと

それを縛ってはいけない

きみたちの神たる主が

そう言っている

ぼくがそう言っている


人々は

自分がだれに仕えているか

知らない

 

これが

みんなの不幸の核心にある

 

まちがった奉仕

まちがったものに対する奉仕

 

まるで金属で毒されているかのように毒されているんだ

少年は思った

 

金属が人々を閉じ込め

そして

金属が血液にある

 

これは

金属の世界だ

 

歯車に駆動され

その機械は動き続けながら

苦悶と死を

まき散らし続ける……

 

みんな

あまりに死に慣れすぎて

まるで

死もまた自然だ

とでも

いうかのようだ


少年は気がついた

 

人々が園を知ってから

なんとも

長い時間が経ったものだ

 

園は

休む動物や花の場所

 

人々に

あの場所を再び見つけてあげられるのは

いつになるだろう?*

 

 

 

 

Ⅰの記述の内容は

フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』よりの

引用

 

それを

分かち書きにし

いくらか

自由詩形式に近づけた

 

ディックが後期に書いたものは

21世紀から22世紀の黙示録と目されるのに

ふさわしいことが

昨今ははっきりしてきている

 

 

 

 

 

あらずもがな

だが

引用行為をし

さらに

改変行為も加えたので

『引用の織物』の

宮川淳を

思い出しておきたくなった

 

「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」
 (宮川淳「引用について」)

 

 

 

 

 

*フィリップ・K・ディック『聖なる侵入』(山形浩生訳、ハヤカワ文庫、2015)の訳に

多少変更を加えてある。

**宮川淳 『引用の織物』(筑摩書房、1975





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