2023年3月14日火曜日

ロブサン・ランパ再読

  

 

1950年代から70年代まで

欧米の精神世界で有名だったロブサン・ランパ(Lobsang Rampa)

YOUFOREVER》(1965)を

フランス語訳で読み直しているが

(フランス語訳は《Les secrets de l’aura*

ちょっとした点で役に立つことや

参考になることに満ちている

 

透視に関する説明で

左手が霊的に敏感な手であり

右手は物質界の現実を扱うのに秀でた手であることなど

どこかで読んでも忘れてしまいがちだし

霊視に関するところでも

邪念がある者や悪用しようとする者が

他人の心や霊体や過去世や未来を霊視しようとしても

邪念のゆえに不可能なので

霊視の悪用はできない仕組みになっていることも

学んではみても

やはり忘れてしまいがちな事柄に属する

 

他人の霊的秘密を見抜く霊視は

完全に神霊的にひかりの側に立った者のみに可能なことであり

そういう者は神や善霊そのものなので

そもそもつねにすべてを見通しているし

見通したからといって人の運命に介入もして来ないので

他人からの霊視を恐れる必要はまったくない

 

ランパはここまでは説明していないが

こういった点を補いつつランパを訳し直せば

今後は霊的な発展を遂げる人びとが多く出る時代となっていくので

50年代から70年代以上に

もっと必要とされる書物となるかもしれない

 

ランパによって思い出させられるのは

とにかくも

いかなる時も内面の静寂を保てるようになるのが

誰にあっても人生の最大の課題であり

そこが唯一の出発点であるということである

内面の静寂を保てる修練の場がこの世で

そのためにしかこの世は存在しないといってもいいほどだ

 

誰もいない静かな部屋や

深山幽谷で瞑目して深く呼吸をして座ったりしていれば

誰であれ内面の静寂が得られるのは当たり前のことであって

本当に問題なのは

繁華でうるさい都会にいてもそのようになれるか

いらいらさせられる隣人や仕事関係の人間たちとともにいてさえも

内面の静寂を損われずにいられるか

多くの雑事に追われて切羽詰まった狂いそうな状態でも

なおも内面の静寂を保っていられるか

さらには大災害に見舞われた時や

戦乱に巻き込まれた時

場合によっては殺されたり処刑されたりする憂き目にあう時にも

(吉田松陰などの潔い死に様が思い出させる)

内面の静寂を乱さずに

他人事のようにしてそのシーンを通過していけるか

死に至るまで

そういうことだけが最重要なのが

この世の生という修行の唯一の勘どころで

すべてが流れ去り

すべてが消滅し

最後には太陽の膨張とともに

地球や太陽系そのものが消え去る条件のこの世にあっては

地上でのわずかな時間滞在の間に

なにを成したか

なにを物質的に残したか

なにをmortalな人間たちの記憶に残したか

などには一切なんの重要性もなく

なにひとつ非物質界に持っていくこともできず

なにひとつ人類の外部の意識体のうちには記憶させ得ず

宇宙のどこかに刻印もできずに

ただ消えていくということをそのまま全的に受け入れて

そういう条件自体を真の自我とせよ

と寄せ来る波のように

思い出させ続けられることになる

 

本当になにも残らず

どのようなことを成そうと

どのような発見をしようと

どのような業績を人類総出で成そうと

すべては人類や地球の枠から一ミリも出ることなく

存在と時間の外へ脱出することも適わず

地球の上に隔離されたまま滅んでいくのであり

さらには原子や素粒子に戻っていくばかりだと思い出せば

地上の王のごとく振舞っているヒトも

毎日厖大な数で虐殺され続けている家畜たちと全く同様であり

人界で生活破綻に陥って

非生産の極みと見なされがちになる状態の人びとと

ふつうの社会人の路線を歩み続けてきた人びとが

実際に全く変わらないことにも

容易に気づかれるようになる

 

内面の静寂があるレベルまで確かなものにならないと

テレパシー力も透視力も霊視力もしっかりとは備わらず

周囲につねに電波として流れてきている

全世界の情報をしっかり聴き取ることもできない

そういう状態を「生きている」とは全く呼べないので

世界の実践型の霊的修行はどれも

内面の静寂を獲得する練習を最優先に据えることになる

 

 

 

 

*T. Lobsang Rampa Les secrets de l’aura (Traduit par France-Marie WATKINS, Edition J’ai Lu, 1971)






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