本が売れるとか
売れないとか
本が読まれなくなったとか
そんなこと
どうでもいいと
いつも思う
売れない
売れない
と言われる時代でも
酔狂に
ひとり本を買っているのがわたしだし
本が読まれなくなったとか言われても
いつも本の中で生きてきている
本を読むのがいいことだと思ったこともないし
どちらかといえば本を読む趣味さえなければ
人生はるかに楽に過ごして来れたはずだし
狭いながらも広い我が家を楽しめて来れたはず
だから本が売れないと聞くと
むしろいいことじゃないの?とか思うし
本を読まない人が増えたと聞けば
よりよい生き方が出来る人が増えていいじゃないの?
などと本気で思ってしまう
昔から「洛陽の紙価を高める」という故事があって
立派な詩文を書いたり
よく売れる本を書いたりすることを言うそうだが
これは晋の時代の左思が三都賦という名文を書いたら
感動した人たちがさかんに筆写したことから来る
筆写するための紙がよく売れたというわけだ
まだ印刷術のない晋の時代にあっては
書き物を所有するには筆写しないといけない
今から思えばご苦労な話だということになる
紙は後漢の時代の発明だそうだから
晋の時代にはすでに存在していたとはいえ
まだまだ貴重品であったに違いない
ずいぶん値も張ったのではないかと想像するが
それでも紙が発明される以前よりは
記録媒体の嵩がグッと減って助かったはずだろう
紙が発明される以前の記録媒体は
竹簡だの木札だので
これらはもちろん場所も取るし重くもある
冊という字は皮紐で竹の板をしぼった形象だし
典という字は竹の札を机の上に載せた形象である
添削の削の字は小刀で削るからこその文字使用だし
だいたい五車の書とか汗牛充棟とか言っても
竹簡や木札の時代の話だから
本の冊数や文字数で言ったらたいしたことはない
焚書というのも竹や木の板だからこそよく燃えた
孔子が『易経』をくり返し読んで学び
韋編三絶したといったところで
そりゃあ竹簡を綴じるなめし革の紐など
読んでいるうちに何度でも切れてしまうだろう
本については
それも
本を所有するとか買うということについては
ジョージ・ギッシングの『ヘンリー・ライクロフトの手記』の
特に第十二章に
読書子たちの共感を呼ぶ多くの記述がある
「その頃
金銭というものは
私にとって何の意味もなかった。
書物を購入すること以外には
心を労すべきなんの価値も認めなかったのである。
私が渇望し
体のどんな栄養よりももっと必要な本というものが
あったのである」
In those days money represented nothing to me,
Nothing I cared to think about, but the acquisition of books.
There were books of which I had passionate need,
Books more necessary to me than bodily nourishiment.
かつては当たり前に呼んでおくべき一冊だった
『ヘンリー・ライクロフトの手記』も
今ではなかなか出会いづらい本になってしまっていて
昨今の若者は
よほど希有な幸運に恵まれでもしないかぎり
ジョージ・ギッシングに逢着することはないだろう
まあ
他に名著や面白い本は
いくらでもある……
とも
もちろん
言えないでもないが
『文学趣味』での
アーノルド・ベネット**のあの至上命令も
思い出しておこう
「何はともあれ本を買え」
そこまで言わずとも…
とは思うが
本というのは
じつは生鮮食材のようなものでもある
いったん買ったら
とにかくも
なんとか調理しないといけない
そういう気に
急き立てられる
そこに
本や
文字というものの
相当に深い奸計が込められている
文字をめぐる行動に出るのを
近未来に
かならず強いてくるのだ
*George Gissing 《The private papers of Henry Ryecroft》, 1903
**Enoch Arnold Bennett 《Literary Taste: How to Form It》 1909
楽しみにしております。
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