2023年5月25日木曜日

Carpe diem

 

 

       Ⅰ

 

クラシック音楽だけをやたらと好み

後から後から聴きに聴きまくって

まさに金に糸目をつけずCDを買って

そうしてある時

ヒョイッというふうに

自殺して消えていった男がいた

 

音は空気という媒質の振動であり

音波は空気の疎密波が伝わっていく現象である

真空の中では媒質がないので疎密波はない

したがって真空の中では音は存在しない

 

死後の世界ともなれば

真空以上に媒質のない世界と考えるべきだろう

音楽があるのは物質界のみであろうし

ましてや演奏者たちのあいだの微妙な違いなど

この物質界でしか聴き取りようはない

 

だとすればこの物質界にあるあいだに

好きな音楽鑑賞だけに没入し切って

脇目もふらずに時間を使っていくのもありだろう

空気という媒質のない世界に行けば

この世で聴こえている音楽とは無縁になる

音楽の純粋観念は聴こえているはずだなどとは

愚かな世迷い言でしかない

 

息切れしそうなところを必死で疾走する

ヘルマン・シェルヘンのベートーベン演奏と

やたらと速い上に整序され切ったギーレンの演奏と

ひとりで幾つもの演奏のあるフルトベングラーと

スポーツカー並みのカルロス・クライバー演奏などが

純粋観念からどう巧みに演繹されて来うるのか

この世にありながら考えてみても

まったくの不可能事であるのは明白である

 

美術だの味覚だの触覚だのも同様のことで

それらの千変万化の微細な彩の曼荼羅が

非物質界にあると思うほうがどうかしている

媒質どころか耳も目も触感もない世界なのだ

ホラティウスならばここで

Carpe diem(カルペ・ディエム)と言うだろう

Carmina(歌集)』第1巻第11歌に彼はこう書いた

Carpe diem quam minimum credula postero

「明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め」

 

 

       Ⅱ

 

ここまではしかし

シニカルな地上人が喜びそうな

慨嘆調を基底とする詩歌の歌いくちである

残念ながらというべきか

幸いながらというべきか

非物質界には物質界など比較にならぬ

まさに千変万化の微細な彩の曼荼羅が展開しており

それと比べると物資界で感官が捉えうるものなど

粗雑で種類も数もあまりに少なすぎて

恐ろしいまでに貧困荒涼寂滅であると神秘家は言う

霊界の色彩の鮮やかさや生気を見ると

物質界の色彩など色褪せた古い写真ほどでしかない

臨死体験をしてあの色彩を垣間見てきた人たちや

睡眠中に霊界を訪れてきた人たちは

この世に戻ってきてみると

色彩や輪郭のあまりのぼんやり加減に落胆する

 

 

 

        Ⅲ

 

とはいえCarpe diemというのは間違いではない

霊界ほどには鮮やかでない色彩と輪郭に囲まれて

B級やC級というべき環境に置かれていても

物質界というのは簡素を旨とする特殊な修行の場であり

霊界と比べれば抽象的な構造の中にあることによって

霊的感性を逆に研ぎ澄ますことが企てられている

限界づけられた小さな貧しい個室の中に見出される

あらゆるものを可能なかぎりの強度で認識することで

霊的筋肉は強化され霊的勘は格段の進歩を遂げる

「その日の花を摘め」の「その日」は全宇宙時間であり

摘むべき「花」は限界の中に見出されうる全であり

無限であってこれは全霊界や神界に匹敵する






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