いつからか
自分を室町時代人だと感じるようになったので
平成後期に対するあまりに大きな違和感は意に介さなくなった
ましてや令和など
まったくの他人事として
捨て置いている
室町人は
時代のはじまる頃
「建武式目」作成の頃の京都の風景を
心の原風景に持っている
後醍醐天皇の建武政権瓦解後の京都は荒廃し
後醍醐方に与同した人々は
家を追われ
私宅は破壊された
強盗や殺人は昼夜を問わず横行し
京都じゅうが戦争後の無法地帯となっていた
「建武式目」の
三 狼藉を鎮めらるべき事
四 私宅点定を止めらるべき事
五 京中空地を本主に返さるべき事
六 無尽銭土倉を興行せらるべき事
などは
こうした京都の状態にじかに対応した
現実的な実行項目といえる
土倉とは金融業者のことで
後醍醐天皇の増税政策や動乱で廃れた
金融業者たちの活動の
早急な再建が望まれていた
室町幕府は
こうした状況に対応すべく始まった
戦後処理幕府であり
足利軍を中心とする軍事政権だった
室町人と自覚しているから
2023年5月に文庫化された
早島大祐『室町幕府論』*も買い逃さない
昨今の文庫新刊の帯の宣伝文句の中でも
ことに秀逸な惹句が記されていて
「あなたはまだ、
義満の本当の凄さを知らないーー」
と来る
言ってくれるじゃないの!
もう
ワクワクなのである
冒頭から
相国寺の七重大塔のことが出てくる
今から600年ほど前
京都には110メートルに及ぶこの大塔があって
京を睥睨していた
これだけでも
室町人としては鼻高々
ウキウキしてしまう
相国寺の禅僧
景徐周麟の『翰林葫蘆集』によれば
「於相国寺慶賛七重大塔其高三百六十尺」
とある
建立者は足利義満
落成は応永六年(1399)
二代将軍足利義詮の菩提を弔うためのものだが
義満自身の権力誇示の目的も
おそらくあった
落成時
荘厳な雅楽が奏でられ
塔の上からは
花びらが撒かれたという
現在の地名でいえば
同志社女子大学北側の
上塔之段町のあたりだろう
賀茂川と高野川が合流して鴨川となる地点の
糺の森よりも西よりだった
これほどの大塔が
現在
跡形もなくなっているのは
四年後の応永十年
落雷によって焼亡したためである
義満は再建を決意し
北山の地に場所を移して造営を進めた
しかし
造営途中
応永二十三年に
ふたたび落雷で焼亡する
こうして
物質界からは
七重大塔は姿を消すことになった
室町人にとって
京都で最も愛着があるのは
やはり
足利家廟所の
夢窓疎石開山の等持院だろう
龍安寺から近く
立命館大学衣笠キャンパスの南にある
庭園の見事さは
ことに紅葉の時分など
筆舌に尽くしがたい
歴代の足利将軍たちの木像が並ぶさまは
偉観であり異観でもある
足利の人間はどれも
日本人とは微妙に異なった顔をしていて
木像をいつまでも見続けてしまう
*早島大祐『室町幕府論』(講談社学術文庫、2023)
0 件のコメント:
コメントを投稿