夏というものは
詩歌では
このように扱ったらいい
と習ったのは
与謝野晶子から
誰(たれ)が子かわれにをしへし橋納涼(すずみ)十九の夏の浪華
水にさく花のやうなるうすものに白き帯する浪華の子かな
あざやかに漣(さざなみ)うごくしののめの水のやうなるうすもの
夏まつりよき帯むすび舞姫に似しやを思ふ日のうれしさよ
七たりの美なる人あり簾(すだれ)して船は御料の蓮きりに行く
『古今和歌集』などでは
夏の和歌はとんでもなく少なくて
ずいぶん嫌われた季節だけれど
与謝野晶子となると
グッと増える
夏の歌
夏というものの楽しみかたを
ほんとうに
よく知っていたひとね
ひとたび
日本の風土に
女性として生まれたからには
四季の楽しみを
徹底して
味わってみせる
楽しんでみせる
そう言わんばかりの歌が
わんさかと
いっぱい
ふつうなら
通俗に堕してしまうような
紋切り型の言葉を
いっぱい並べてみても
しっかりと
魅力的な観光コピーになってしまうのだから
やはり
ただ事ではない
才能
パリに行った時でも
こんな調子
巴里(パリイ)なるオペラの前の大海にわれもただよふ夏の夕ぐれ
要所は
「われもただよふ」
と
書き込むところ
まわりに立ち起こる
季節という奇跡
そこに
「われもただよふ」ところに
このひとの
処し方があり
秘法がある
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