2023年11月15日水曜日

イル バアル ヤム・ナハル モート


 

 

吉野にある

金峯山寺の金剛蔵王権現は

魔を威嚇すべく

右腕を上に持ち上げた

まっ青な迫力ある姿をしている

どこか

ちょっと滑稽味もあって

見飽きない

 

日本で

最も迫力ある仏像ではないか

と個人的には

思う

 

紅葉の美しい

初冬の

寒くなった吉野で見たのを

忘れない

 

この金剛蔵王権現と同じように

右腕を上げたポーズは

メソポタミアからシリアやパレスチナで信仰され

カナンでは高位の神とされた

バアル神の特徴でもある

 

古代オリエントでは嵐の神とされたが

農民からは慈雨の神と敬われ

カナンでは豊饒神とされた

エジプトのオシリスやギリシアのディオニソスのように

死んで蘇る神でもある

死の神モトや海の神ヤムとの戦いでいったん殺され

翌年に蘇るのがバアルだった

日本とは違って

カナンでは夏が死の季節である

 

バアルは最高神イルの息子で

海神ヤム・ナハルや死の神モートは兄弟にあたる

ある時イルが開いた神々の集会に

ヤム・ナハルの死者が来て

ヤム・ナハルこそ神々の支配者であり

バアルはヤム・ナハルの奴隷だと宣言する

最高神イルがこれを受け入れたため

怒ったバアルはヤム・ナハルのところへ行って

ヤム・ナハルの頭を打ち砕いて殺し

死体をバラバラにしてまき散らした

 

こうしてバアルは神々の王となるが

造営した神殿に死の神モートを招いた際

葡萄酒でモートをもてなしたため

人間の肉をこそ求めるモートを激怒させてしまう

このあたりからのウガリット神話は複雑で

いろいろな意味が張り巡らされ

読むたびに違う見方を思いつくのだが

死の神モートが人間の肉をこそ欲するという点は

カナンやパレスチナやシリアの

けっして平和にならない情勢を見るにつけ

いつも棘のように気にかかり続ける

 

聖書でバアルが悪く描かれるのも

ウガリット神話でいつもバアルが

戦いや死と接して語られるからかもしれない

ウガリット神話では「崇高なるバアル」の意味で

「バアル・ゼブル」と呼ばれていたのが

旧約聖書の「列王記」上では

「蠅のバアル」の意味で「バアル・ゼブブ」とされた

ここからベルゼブブやベエルゼブルという名が出てきて

これは新約聖書では悪魔の名とされてしまう

人身御供を求める偶像神や

ヤハウェに対立する異教の神とされる

 

こういうバアルが

あるいはベルゼブブやベエルゼブルが

カナンのかの地では

荒れ狂い出しているように見える昨今だが

人間の肉を貪る死の神モートこそが

じつは暴れ狂っているのかもしれない

 

パレスチナやイスラエル以前の古い神々が

荒々しく蘇ろうとしてきている

などと見て済ませるほど事は単純ではない

ウガリット神話の最高神イルが

イスラエルには直接に流れ込んでいるからだ

 

「イスラエル」*という語は

「エル戦い給う」という意味でもあれば

「エル支配し給う」という意味でもある

「エル」はセム語共通の「神」を意味する普通名詞であり

ウガリット出土の文書では

フェニキア=カナン神話における最高神の固有名でもあった

アラビア語の「アッラー」も同語源から由来している

最高神はウガリット神話のイルのことだろう

部族連合の名であった「イスラエル」という呼称は

ヤハウェという神への崇拝から形成されたものではなく

ヤハウェが創出される以前の

土着の神への信仰を意味しており

バアルの父であるイルを信仰する部族連合が

イスラエルだったことになろう

 

こうしたことを確認してみると

最高神イルの息子であるバアルが

兄弟の海神ヤム・ナハルや

やはり兄弟の死の神モートと戦いあい

殺しあう姿には

非常にリアルな手ざわりが感じられてくる

 

どこまでも身内の争いではないか

とも思われるし

原初の神々の時代の争いを

何度も何度も転写されて

くり返し続けているのではないか

とも思われてくる

 

 



 

*このあたりの指摘は、山我哲雄『聖書時代史』(岩波現代文庫、2003年)による。






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