自力本願とか
他力本願という
テスト勉強用のまとめふうな
型に嵌まった見方でばかり見ていると
ぜったいに
見落としてしまうこととして
自力本願の親玉のような空海自身が
じつはこのように書いている
真言は私たちの考えを超えたものである。
これをくり返し思念して唱えれば、
迷いの根源が除かれる。
また、一字一字に千種の真理が含まれており、
これを唱えれば、
現にこの身のままで存在の本質を理解することができる。
『般若心経秘鍵』
空海は
ボードレールが『万物照応』で説いたような
あらゆるものの構造的つながりの存在を思考の基盤に持っている
基本的に構造主義的思考に基づいている神秘主義の基盤思考のひと
ここで紙の上に記していく絵や図や記号などが
そのまま全世界の構造に一致していく
と見るような発想である
魔術や呪術はこの発想だけに支えられており
いわゆる呪いの藁人形的な術の掛けかたさえも
藁人形が対象となる人間と一致して術が作動する
と考えないと
ばからしくて材料を準備する気にもならないだろう
空海よりも後の時代の
いかにも日本ふうな思想の原点ともなった鎌倉仏教はみな
他力本願を旨とし
知的にも思考力的にも精神力的にも忍耐力的にも
エリートと呼ばれうる優秀な者たちのみが遂行可能な
空海型の自力本願の悟り追求の方法を否定して
すでに全世界を救い終わっているという前提の阿弥陀仏への
ひたすらな感謝礼拝を以て
全生類が成仏と悟りを遂行できるようにプランニングした
一大プランナーである阿弥陀仏の「完全イエスマンになりま~す!
「阿弥陀に付き従います!」という意味で
「南無阿弥陀!」と唱え続ける運動を作り出したわけだが
これは
宇宙創造や創造後のその維持や
人類の教育計画としての喜怒哀楽だの生老病死だのといった
あらゆるイベントを
緻密繊細な物語構造を以て
アトラクションとして配置する無限の配慮の企画実行主である
超巨大宇宙的教育者である100%全能の阿弥陀仏センセ
そのやり方を信じ切るという表明を行うことが
いわゆる鎌倉仏教ふうの信仰行為なわけで
これはもちろん
「阿弥陀仏」という文字や発音と
「阿弥陀仏」の実体とはぴったり一致するのだ!
などと信仰していないと
一㎜も成り立たない信仰行為と言える
ちょっと色合いの違うように見える日蓮の
「南無妙法蓮華経」と唱えよ
という教えも
メタファーを駆使し緻密繊細大風呂敷ナンセンス大活劇きわまった
(とんでもなくつまらないところも満載なために)
凡人にはなかなか読み通せもしなければ理解もできない
最高度に意味作用を発揮させる一大複雑系テキスト『法華経』
その正式題名である『妙法蓮華経』を唱えるだけでも
ビンビンと効力が降ってくるほどのものであり
日蓮自らが
もののありのままのすがたは妙法蓮華経の五字にほかならない
と明言している
いや、『妙法蓮華経』という複雑なメタファー体系テキストと
『妙法蓮華経』というタイトルの五文字とは
あきらかに別物でしょう?
といった反論も一切無視されてしまうような
激しいスターリン主義的狭量読解強制が
ここでは
行なわれてしまうのだ
日蓮はさらにここまで言ってしまう
およそ、信心とは格別にむずかしいわけではない。
妻が夫を慕うように、
夫が阿妻のために命を捨てるように、
親が子を救って捨てないように、
子が母から離れないように、
法華経、釈迦如来、多宝如来、すべての世界の仏や菩薩、
そしてすべての神々を信じ奉って、
『南無妙法蓮華経』と唱え奉ることを信心という
『日蓮・妙一尼御前御返事』
これはもちろん
オウム真理教信仰や
統一教会信仰
シオニスト信仰と紙一重
というより
構造上はまったく同一である
ここで日蓮が言っている「信心」とは
なんらかの縁あって接したり知り合って
心情的にやりとりをした者や物を
けっして捨てることなく
関わりあっていこうとする心のありかたを言っているので
「信心」という用語選択は誤っている
道元ならば
もっと明晰であっただろう
と思うと
これも間違いで
『正法眼蔵』の「弁道話」では
彼はこう言っている
宗門の正伝にいわく、
この単伝正直の(個から個へ正伝した)仏法は、
最上のなかに最上なり。
参見知識(師について説法を請う)のはじめより、
さらに
焼香・礼拝・念仏・修懺(懺悔すること)・看経(読経すること)
もちいず、
ただし打坐して身心脱落することをえよ。
道元は
焼香・礼拝・念仏・修懺(懺悔すること)・看経(読経すること)
ひたすら座禅せよ
と説いているのである
この後に続く文では
たとえ一時でも足を組んで
口を一文字に結び
黙って
心の中では物事の是非や善悪などの分別をやめて
仏陀が示した三昧の姿を自分の身に再現して座禅すれば
座禅の姿は仏陀の姿であるから
座禅した我が身に時空を超えて仏陀が現われ
ここをひとつの中継点として今の世界に仏陀が照射されていく
といった内容を書いていく
この時の道元の論述を支えていく思考は
やはり万物照応理論でしかない
座禅もまた表象を用いた魔術の実践なのである
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